蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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血と胃液と消毒液と(前)

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 婦人物の毛織の外套に不釣り合いの安っぽい襟巻をして、ニビは軽い足取りで路地を行く。白い息が撫でていく耳は赤い。
 辺りは明るい。昨日の夜中に酒場で伝言を受け取り、まだ早いまだ早いと気持ちを抑えて過ごしながらも、結局は日頃よりかなり早く、ぎりぎり夕方に差し掛かる頃にはもうタドの家までやってきてしまった。案の定タドはまだ仕事場で、確認のノックに応えはない。また出番の来た鍵を取り出してニビは頬を緩めた。
 寒いから入らせてもらおう、なんなら部屋を暖めておいて、お茶も淹れて帰りを迎えよう、と企んだ。薪も茶もそもそもは客のものだとしても、そういう気を回してちょっとした演出をしてみるのは得意だ。酒があるとの誘いだったのでつまみも買ってきてある。タドの好みをと思えば探すうちに干した果物を練り固めた飴やクルミが増えてどちらかといえば茶請けのようになったが丁度よい。冷えた取っ手に驚きながらも鼻歌混じりに扉を開けた。
 こうしてタドが気を利かせてくれたし、今年の冬も無事越せるだろうと安堵していた。
 客がつかなくなったり、金がなくなったり、それで腹を空かせたり体調を崩したりはあるかもなあとは、以前から時折考えていた。彼はまだまだ若く美しさは衰えを知らないが、年をとればやり方を変えていかなければならないのだとも。何歳まではこれで稼げるのか。それくらいは、ニビだって考えていた。たまには滅入ってしまうほどに。
 だがこれは急だった。
 時は過ぎる、咲いた花もいつかは枯れる。――嵐が散らすこともある。
 テーブルへと土産の包みを置いたときに背後でした不意の物音に、ニビはぱっと振り返った。見えたのは知った男の姿ではなく、誰か来ていたのに入ってしまったのかと考えたのが反応を遅らせた。大きく振りかぶられる椅子に身が竦む。
 ニビが出くわしたのはこの家に家事をしにきている女などではなく、部屋を物色していた空き巣だった。静かに忍び入り鍵を内から閉めて悠々としていたところ、下見していた家主の帰宅より早い時刻の来客に息を潜め――しかし中まで入って来られてしまったので窮して凶行に及んだ。
 衝撃と共にニビの意識は飛んだ。声を上げるほどの時間さえない、一瞬のうちの出来事だった。

 今日も寒かったなあと縮こまり凝ってきた肩を気にしながら、タドは家に帰り着いた。こんな日にはさすがに辻馬車を使うが、彼が使うようなときは皆使うので乗せてくれる車を探す時間がかかって結局時間の面ではあまり違わない。大きな通りから離れたこんなところまで頼むと御者がよい顔をしないので、幾つか手前の角でもう停めてもらった。やはり歩くかと毎回、毎年の逡巡をする。
 そうしてぼんやりしつつ扉を開けようとすると、手間取る。既に鍵が開いていた。今朝は確かに締めた記憶があり家事は頼んでいない日であったので、ニビが来たのだと思って一気に気持ちが晴れた。この前驚いてしまったから来ている合図として開けたままにしておいてくれたのだろうかと考え気恥ずかしくもなる。今日は入る前に意識してニビに向ける顔を作った。ただいま、いらっしゃいという気構えをした。
 しかし、改めて開けなおして入った家の中は暗い。
「ニビ君――」
 灯りをつけてよいと言ったのに。ランプの油を切らしただろうか。それとも寝ているのか。そうした考えはすぐに途絶えた。――それより何か嫌な臭いがする。目が見つけるより先に、嗅覚が異変を感じとった。
 ニビの匂い以上に強く臭う、不快に酸い生臭さには覚えがある。歓楽街では程度を超えた酔っ払いが吐いているのもよく見かけられる。そういう道端の悪臭に似ていた。そして重なる、なんとも嫌な錆のような臭いは血液のそれだ。タドの全身に鳥肌が広がった。
 廊下などなくすぐ見える居間の中、テーブルの横に倒れる人の形が見えた。
「ニビ君!」
 駆け寄り揺すっても反応がない。何度も呼んで、抱え起こそうとしても力の入らない体はぐらりと重かった。
 ニビの顔や髪は血と吐いたものとで無残に汚れていた。それらが乾き始めているのが、もうこうなってから時間の経ったことを示している。触れた体は冷えている。
 いつかの風邪の比ではない悪臭が息に混じる。死が擦り寄ってくる悍ましさに、タドは震える歯を食いしばった。

 かつて詩人は言った。
 ――時は過ぎる。花の盛りは短い。蕾は時あるうちに摘まねばならない。後悔はいつも遅いのだから。
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