蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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血と胃液と消毒液と(後)

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 淡茶色の目が開く。また閉じる。何度かそうして気力を振り絞って、開けた。ニビは重く眠たい意識で覚えのない天井を眺めた。まだ暗い時間だ、どこの宿で寝たのだか、気分が悪い、顔が痛い、飲みすぎたんだっけ、と縺れる思考が少しずつ解け――そうではないことを思い出した。
 あ、と小さく擦れた声が出た。殴られたことを思い出すと共に頭と顔がズキンと痛んだ。
「っ……」
 呻く声に寝台の横の椅子で俯いていたタドも飛び起き、身を起こしかけたニビの胸を押さえて制する。勢いのあまりに倒れた丸椅子が大きな音を立てたが、そちらは気にも留めなかった。
「動くんじゃない、痛むのか?」
「タドさ……」
「医者がいる、平気だからね」
 が、少し動いただけでも頭に揺れが響く。腫れた側頭部も倒れたときに打った鼻も痛み、口の中に血の味がして気分が悪くなる。手を当てても抑えきれずに戻した。タドは胃液だけ吐き出されるのを近くの盥に受け止めて、背を擦り、布巾と水を差しだしてやった。
 どうにか、えずきながらも口を濯ぐ間に部屋の外から足音がした。くたびれた雰囲気の老齢の医者は患者が落ち着くのを待って言う。
「いいか、あんまり動くなよ。頭を打ってる。熱も――まだあるな」
 顔に触れながらの再三の注意に、ニビは視線だけで頷いた。示される指を見上げる。
「見えるか。指は何本?」
「二本、」
「自分の名前と、この町の名前は言えるか」
「……ニビ、ここは、ガウシ……」
 続く質問にも、困惑しながらも確かな返事がある。医者もタドも多少安堵の顔をした。ニビはまた、なるべく頭を動かさぬようにして辺りを見渡した。やはり見知らぬ部屋だった。汚れたシャツが脱がされていて寒いのに、毛布を顎の下までずり上げる。
「ここどこ……?」
「近くの医院だ。君、家で倒れてたのは覚えてるかい」
 近隣の住民の相談や歓楽街のいざこざを長年引き受けてきた医者当人より早く、タドが答える。はっとして、ニビは声を上げた。
「タドさん、泥棒……中に入ったら男がいて」
 家に潜んでいた知らない男、急に殴ってきたのはその類だろう。訴えにタドは数度頷いた。荒らされた部屋の様子で彼も窃盗だろうと判断していた。
「男だね。分かった、知らせておくから」
「ごめんなさい、何もできなかった、」
「謝ることがあるか」
 まだ続きそうな二人の声を、途中で医者が制す。
「いいか、アンタは頭を打った。血が出てこぶが出来てる。あと鼻面も打ったらしい。鼻血も出てたし血が足りんかも知れん。おかしいと感じたところがあれば言えよ」
 ここ、と既に処置され包帯を巻かれた頭の右側、傷が瘡蓋になり始めている消毒液塗れの鼻の頭も指さし。その後、見え方や聞こえ方、手足の動きも確かめて、それらの問題のないことに頷いた。安静を告げて薬などの用意に出て行ったのを見送り、残ったタドはまた椅子に座り込み、深く息を吐いた。
 負傷したニビほどではないが彼も心配にやつれた顔をしていた。言葉を探して、もう一つ溜息の後に言う。
「まさかこんなことがあるなんて。治安だけは悪くないと思ってたんだが……」
「……僕が通ってたから目立ったのかも」
 ニビが呟くのに、すぐ反論の口を開き――しかし頷いておいた。そうして宥め、先ほど問題なく動いていた手を握る。まだ冷えているが反応があるのに心底安堵して、息を吐く。
「そうかも。でもそれを君のせいとは言わない。俺が呼んでるんだから。キンセだって目立つよ。俺も馬車を使ったし」
 ニビも頷いた。頷くと痛みを覚えて眉が寄る。鼻を撫でるとやはり痛い。真新しい傷の嫌なざらつきがある。
「家、大丈夫ですか? 盗まれたものとか……」
「ああまあ、盗られたようだけど。あんまり目ぼしい物が無い家だろ? 金くらいかな」
 帰宅した夕方に倒れているニビを見つけて、今は夜だ。此処へと運び込み応急処置が済んだ後には一度家に戻り、強盗だとの通報と共に最低限の確認をしてあった。色々と無くなっていた物はあったが、今この場ではどうでもよい。こんなに余裕がない中で考えるほどに盗まれて悲しい物はなかった。――一つ悔しい物はあったが、それは作り直せるものだ。
 とはいえ金も盗まれてよいわけがない。顔を曇らせるニビに、タドは首を振った。
「いや、前に叱られてね、ほとんど余所に預けてあるから平気だ。――平気だよ。だから心配しなくていい。心配なのは君だよ。……大丈夫そうかい」
 そっと手を離しながら、言葉だけではなく案じる表情で顔を覗き込む。目立つ傷、顔色の悪さや今まで見たことのない病んだ様子、血と胃液と消毒液の臭さにタドの眉根が寄る。
「わかんないけど多分平気……くらっとするし痛いけど……」
 寒気がするし頭痛と眩暈は変わらずあったが、目覚めた瞬間からは大分ましだ。――そこまで言って思い出したようにニビは笑って見せた。
「僕運だけはいいんで、大丈夫でしょきっと」
 笑顔にはさすがにいつものような明るさや艶やかさはなく、痛々しい。元気づけたつもりのタドが一層険しい顔をするのでニビも困って眉を下げた。少し、気まずい沈黙があった。
 会話を再開したのは、居住まいを正したタドだった。
「あと……君の物も盗られたんじゃないかと思うんだ。何も持っていなかったから。大事な物は?」
 尋ねる言葉に緩慢に瞬いて、ニビは聞き返す。
「全部?」
「いつも持ってた袋は無かった。あと、上着は何かいいのを着ていたかい」
 タドが知るいつものニビの持ち物はそれで全部だ。実際、そうだった。家のないニビには置き場所もなく、タドのように預けてもいない。
 盗人は昏倒させただけに留まらず、目についた物を奪っていったのだ。上等そうな上着を剥がして――腰紐に括っていた物入れは中も見ずに掴んでそのまま、僅かな金品すべて。大切な物、と聞けばニビはすぐに思い至った。
 あの家の鍵も、貰った香水瓶も持っていかれた。他人にとっての価値は無いのにも関わらず。怒りと悲しみに呆然とする。
「最悪……」
「一応、探してもらうよう言っておくけど」
 呻く声にタドの表情もより暗くなる。ただでもこんな目に遭って、特別な品があったのかと思えばさらに不運だ。戻ってくる可能性がどれほどあるかも分からない。それ以上は声をかけられず待っている男に、しかしなかなか答えられず、ニビは日頃より随分長く黙り込んでから呟いた。
「全部あれに入れてあったのに……鍵もあれに入れてた」
「何の鍵?」
「タドさんの家のですよ。それしかない」
「ああ、それなら……」
 それなら別に、と言いかけて、タドは言葉を詰まらせる。
「……渡さなければよかったね」
 鍵を渡さずにいれば、ニビが家の中に入って物取りと鉢合わせすることもなかっただろう。後悔の声音にニビの鼻が痛んだ。
「そんなこと言わないで」
 打った所為ではない。折角貰った大切なものをぞんざいに奪われたことも、タドにそんな風に言わせたことも、痛いほどにつらかった。思いがけない不幸の実感が改めて押し寄せて来て、息が苦しくなる。
 しかし涙ぐむほどの暇もなく、向こうで声がする。外から誰かがやってきた雰囲気――聞き慣れた声に顔を上げ、タドはまた慌ただしく立ち上がり部屋の入口へと向かった。
「キンセ、」
「――タド! 無事なのか⁉」
 医院の者の案内を追い越し、蒼白な顔のキンセが飛び込んでくる。大慌ての彼は呼んだ男を見つけると共に、その背後のベッドに一目で分かる怪我人の姿も見た。
 こんな状態では男娼は逃げ隠れできなかった。驚いた様子の碧眼としっかりと目が合ってしまって、硬直する。
「キンセ、俺は無事だからそっちで話そう。ごめんニビ君、休んでてくれ、すぐ戻る」
 そう促すタドに押されてすぐ、キンセは些か気まずげに廊下に引っ込んでいったが――悪い想像が一気にニビの頭の中を駆け巡った。
「最悪じゃん……」
 零して、顔を覆う。どうしようもなかったとは言えど悪いことが重なりすぎる。気遣う看護婦の声が遠かった。

 タドはどうにか友人を医院の廊下の奥、突き当りまで追い込んだ。
 人づての連絡を聞いてすっ飛んできたキンセは髪をただ一纏めに括って、装いに合わない黒色の上着を羽織り、ズボンの裾をらしからぬ雑さで靴に捻じ込んでいる。いつもは全身に気を配り外に出る彼の慌てぶりが窺えた。
「驚かせたな、悪い」
「いいよ、それより大丈夫か」
「うん、まあ俺はね。どうも空き巣に入られてたみたいで、帰ったら家が荒れてて、彼が倒れてて――怪我をしたのは彼で、俺はそれを連れてきただけだ。だから無事だ。俺はなんともない」
 互いに肩を叩いて言い合い状況を確認する。ニビが目覚めて一段落ち着き――時間が経ち、何人もに説明するうちにタドの説明も纏まっていた。強盗らしいと聞いて最悪の事態も想像したキンセは、それを聞いて正直ほっとした。
「ああ、それはよかった――いやよくはないな、悪い」
「金が盗られたけど、君に預けてあるから全然、大した額じゃない。食費くらいだ」
「そうか、やっぱり前にああ言っておいてよかった。……――それで? あのお嬢さんは? 怪我は酷いのか」
 タドの給料の大半をそのまま管理しているのは彼だ。長年の貯金があの家の箪笥に、大した鍵もなくしまわれていると聞いて当人より不安がったのだ。それが今回は不幸中の幸いとなった。そんな少額の被害より話すべきはやはり怪我人のことである。顔もだったな、との呟きも続いた。
「いや彼は」
 誰よりもタドを知り案じている男は何度もと聞こえるのに眉を寄せた。首を振る。
「変な言い訳しなくていい。もう見た。そういう仲か? 随分若いが……」
 さっきばっちりと見てしまった巻き添えの怪我人の、あの中性的な見目をキンセは女性と判断していた。それでタドが、家で会うほど親密な仲を隠そうとしているのだと捉えた。
 さすがに黙ってやりすごせない状況に、タドは迷った。
 なら女だということにしておこうかと一瞬は過ぎらないでもなかった。次には、男でただの友人だと無難な言い訳をするべきだと思いはした。――だがもうバレた。それならいっそここで全部済ませてしまえ、なんて結論に行き着いた。この後のことも決意しきった。無駄にする時間などない。倒れるニビを見つけたときの絶望感が強く焼きついて、半ば自棄ヤケだったかも知れない。
「男だ。――キンセ、正直に言うから怒らないでくれ」
 一言で瞠られる目を見据え、確かめに行きそうな友人の肩にもう一度手を置き、タドは続けて口を開く。勢いをつけて。
「新しい香水ができた。傑作だ。絶対評判になる。自信がある」
「今そういう話は――」
「あれを作るのに、彼には協力してもらっていた。会ったのは偶然だ。ただ。彼はとても素晴らしい匂いがするんだ。――だから金を払って何度か嗅がせてもらってる」
「っは……?」
 急に変えられた話の向きを窘めようとしたキンセを押し切り、早口にそこまで言う。
「おまえ、お前それは」
 どうなんだ、と狼狽える声が上がった。こんな場でなければ、並の仲であれば悪趣味な冗談ととったかも知れない。だがキンセはタドがそのような冗談は言わない男であること、そのくらいのことはするかもしれない変わり者であることをよく知っていた。こういう顔をするときは本気だとも。というよりも、タドはいつにもないほどの気迫を纏っていた。
 混乱に混乱が重なっているキンセに、タドはさらに畳みかける。基本的には弁が立つ経営者のほうが主導権を握っている関係だが、この調香師も実は我が強い。いつもは自分も同じ方向を向いているから強く主張しないだけで――言い出せば、親しい相手は言うことを聞いてくれると思っている。
「キンセ。君ならきっと理解してくれる」

 てきぱきと世話を焼いた看護婦が一人にしてくれたので、ニビは宿とは違う雰囲気の薄暗い部屋をぼうと眺めて、嫌な展開が来る覚悟をしていた。タドとあの男が揉めたり、その矛先が自分のほうを向いたり。上手くただの友人だということにできていればいいけど、タドと自分は二十も歳が離れているから怪しい――男娼とバレても今なら有耶無耶にできるかなとまでは妙に冷静に考えもするが、その先の立ち回り方までは思いつかない。まったく本調子ではなかった。
 言い合うような声は耳を澄ましてみても聞こえず。待っていられるうちに静かな気配が帰ってきた。
「……眠かったら寝ていいんだよ。邪魔だったら俺も外に居る」
「いーえ」
 ニビの視線が己を向くのを見て、タドはほっと息を吐いた。気遣うその声にニビはなるべくいつもの調子を心掛けて微笑む。参ってはいるが色々ありすぎて眠れそうにない。
「さっきの人、帰ったんですか。……大丈夫でした?」
「ん、うん、まあ」
 タドの背後も窺い、数秒を経てどうにか口を動かし問うと返事は鈍い。――まさか、その人が廊下で待たされているとは思わなかった。ベッドの横までは来たタドが座らないで立っているのが気にかかった。見上げる瞳が揺れる。
「……ニビ君。金とか、そういうのは一切気にしなくていい。治療費は全部出すし、生活も俺がどうにかする、というか、……あー……君の部屋を作るから、居れるだけ居てくれ」
 タドはニビだけではなく、なんとも言えない顔のまま待つ親友にも聞かせるように、はっきりと大きめの声で言う。
「いや、そんな――」
「これは善意じゃないよ。頼みなんだ」
 困惑して首を振り、辞するニビの声を遮る。青灰色の目がじっと、横たわる、弱った人の姿を見つめる。憤りに拳を握って彼は訴えた。
「君を買いたいんだ。俺にあげられるものは何でも出すから、頼むよ」
 思わぬ懇願。その切実さにニビはぽかんとする。タドは止まらない。
「俺みたいなのが君のような若い子を束縛するっていうのはどうなんだとは思うんだが……いや、もう歳なんだから尚更、時間は有効に使わなきゃならないと思い直したんだ。君だって若くたっていつどうなるか分からない。そういうものだって。それなら俺は君の時間が欲しい。君が必要なんだ」
 タドの言うことが呑み込めないのは、頭を打ったせいだろうか。――予期していた何とも違う流れにニビは戸惑った。返事が無いのに焦れたタドがもう一押しする。間近まで歩み寄って屈み込んだ。距離の分というわけでもなく、声量は小さく落ちた。
「君、俺が好きだよな? それも知った上で言ってる。考えてくれ」
「え、え?」
 ニビは答えられなかった。目が回るのは気分だけの問題ではなくて、実際の体調不良だった。
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