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夏は星狩りの季節

忿りを懲らし欲を窒ぐ、怒りと欲望は損しかないね。

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 あまりに大きな情報が瞬間でぶつけられると、人の五感はバカになるらしい。士匄しかいは、何も見えず、息も苦しく、声も出ぬ。静謐は逆にうるさく、キインと耳障りな金属音が鳴り響くようであった。闇であり、音が無い。ただ、重圧のような感覚と、たった一つの感情に支配される。

「が……っ」

 士匄はぐらついたが、床を叩くように片手で支え、崩れ落ちるのを耐えた。

 欲しい、全て欲しい。

 飢えと渇きが身も心も喰らい尽くしていくようであった。食べよう。宝を女を手に入れよう。称賛されたい。権力を我が手に。ありとあらゆるものを欲しいままに貪る。

 饕餮とうてつが持つ、本能と権能が士匄の強欲を膨らませる。荀偃じゅんえんから生じた瘴気しょうきどころの話ではない。抗えぬほどの欲心にどっぷりと沈み、溺死しそうな己がいる。必死に自分を保とうとして、士匄は歯を食いしばり、闇の先を見た。額に脂汗が浮き、こめかみに血管が浮き出る。びきびきと、顎の骨が鳴りそうだ、となり、思いきり歯を食いしばっていることに気づいた。かくかくと口を何度かあけたあと、頬の肉を思いきり噛んだ。

 激痛と共に、口の中をわずかな血の味が広がっていく。同時に、視界が少しずつ開けてゆき、太陽の照りつける『夜』の中、巫女が手先から血をまき散らせながら踊っているのが見えた。土を何度も踏みしめ跳ね、腕を掲げて回っている。こうの指先が食いちぎられたように無い。饕餮に捧げたらしい。それ以上の贄を差し出す代わりに、神への踊りを捧げているのであろう。その動きは、士匄には野卑で面妖に見えた。

 饕餮は全てを具現化していない。瘴気の渦から上半身だけをもたげ、睥睨へいげいしてきている。舌なめずりをしているようにも見えた。その周囲を長い蛇の体が苦しそうにのたうっている。二首にしゅ山神さんしんの顔は賢人らしく平静そのものであるが、ここは彼の神域ではない。明らかに不利である。

「……場はきん。陰気が陽気を取り囲む。偶然であろうが、それを使うとはあの淫祠いんし、絶対八つ裂きにしてやる……」

 してやる、と口に出した瞬間に、士匄の心が殺意に染まった。あの女を殺し、その屍体を辱めたいという欲があふれ出る。獣欲にも似た衝動そのままに手元の銅剣を引き寄せ、立ち上がろうとした。

 その腕を、掴まれ、引っ張られる。全体重を乗せたように強く押さえつけられた。

 趙武ちょうぶであった。

 士匄は、この後輩を失念していたことに気づいた。これは士匄よりも耐性が弱い。きっと何らかの欲にかられているのであろう。もしかすると士匄を食おうとしているのであろうか。そのようなことより、目の前の女を殺したい、と士匄はふりほどこうとした。

「ダメです! その剣は身を守るものとしてあるのでしょう! 獣を遠ざける金ではないのですか、お気を確かに、范叔はんしゅく!」

 趙武が、悲鳴のような声で叫んだ。彼は、欲望の奔流の中で、正気を保っていた。士匄は、銅剣から手を離し、目を見開いて趙武を見た。引きつった笑みは、安心させようとしているようであった。額に汗を浮き立たせ、目は潤んでいるようであり少し充血している。すがりついてくる腕の片方は、血が流れ出て衣を赤く染めていた。床に、贄をほふった短剣が落ちている。よくよく見ると、足にも切り傷があり、血痕が派手に飛び散っていた。

趙孟ちょうもう、お前……」

 士匄は腕の刺し傷を凝視しながら呟く。それなりに深いのであろう、血が衣にどんどん広がっている。――傷というものは、よろしくない。祖からの体を傷つけるは不孝、死後もその傷が残り続ける不幸。とっさに持っている麻布を裂き、趙武の腕を縛った。応急処置である。士匄は一息つくと、

「バカヤロウ!」

 と反射で怒鳴った。

「己で己の体を傷つけるとは、お前は匹夫ひっぷか!」

 状況にそぐわないが、先達の大夫たいふとして正しいことを士匄は言った。全くもって正論であったが、趙武は引くことなく強い視線を向けて口を開く。

「見えぬ場所です、戦であれば、傷つくことございましょう!」

 痛みで苦しいのであろう、掠れたような怒鳴り声であった。士匄の動きが止まっても、趙武は腕にしがみつき、身を離そうとしない。

「今は戦なのだと士氏の巫覡ふげきは仰っておられた、戦場で戦をお忘れのご様子、私はあなたにご教導いただいており、そして支えるものです。いわば、です。佐として申し上げます! 巫女を斬っても中行伯ちゅうこうはくは救われない! あなたも、きっと戻ってこない」

 は、と趙武が息を吐いた。地の底から吹いてきたような息であった。

「私は、弱い人間だから、こんなことしても、無駄かもしれない」

 掴んでいた趙武が寄りかかってくる。士匄はそれを受け止め、その背後を見た。瘴気が渦巻き寄り集まり、男の影を作っていた。下は腰まで、指先からは腕まで表れ優しく撫でようと右手が伸びている。顔は――。顔は、目鼻はまだ、形作られていない。しかし、頬骨が目立つ、しっかりした輪郭が表れ、男らしい口元が柔らかく笑んでいた。

 まるで、よくがんばったな、とねぎらうような、父親の笑みである。

 趙武が、怯え焦った顔をしながら、床に目をやり、短剣に手を伸ばそうとした。士匄はその腕を掴んで止めた。

「これくらいだと、止まらないです! もっと傷を!」

「自傷の欲に引っ張られるな!」

 士匄の怒声に、趙武が止まった。一つの欲から目を背けば、別の欲をご用意される。人の心は欲と切り離せぬ。饕餮はただ、己の権能をまき散らしているだけであり、士匄たちに何も働きかけてなどいない。そこにあるだけで、欲を膨らませ、そして貪り食うのであろう。

 このままでは、趙武は狂う。否、士匄も狂い、氏も狂い、国人全て狂って死ぬ。

「みんな、くいつくせ! 食えば勝ち、食われれば負け!」

 皐が笑いながら、勝利の雄叫びをあげた。それは託宣にも似ていた。
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