【完結】蟻の痕跡

晴 菜葉

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第一章 発端

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 肌寒くなってきたからか、喫煙所には人の姿は見当たらない。
 煙草を口端に咥え、一角に設けられた木製のベンチに腰を下ろしたときだった。頬に温かい感触が当たる。
「また、秋葉課長に苛められちゃったんですか? 」
 顔、滅茶苦茶怖いですよ。あっけらかんと、続けるのは、怖いもの知らずとも天然とも呼ばれる、磯山弦巡査だ。
 頬に触れた缶珈琲を引っ手繰ると、スーツのポケットに突っ込む。
「何だよ、その苛められたってのは」
 鬱陶しいやつに出くわした。内心で大きく舌打ちすると、煙草に火を点けた。
「もう、またいらいらしてる。カルシウム足りてないんじゃないですか? ちゃんと自炊して栄養のあるもの食べてます? 」
「お前には関係ねえだろうが」
 親子ほどの年の差ではないものの、磯山はまるで父親に対して何かと口煩い女子高生のような物言いをする。こいつが口を開けば、何やら一気に老けた気さえするのだ。
「わざわざ俺を掴まえにこんなとこまで来て、何の用だよ」
 磯山が煙草を吸わないのは承知だ。嫌煙家であると常日頃から憚らない。
「それがですね」
 勿体ぶって、磯山は俺の隣に腰を下ろした。俺の吐く煙に混じって、ふわっと花のような良い香りがする。また女子にモテようと無駄な努力を。すっかり父親じみた気分で、横目で彼を睨んだ。
「実は、交通課の女子からどうしてもと頼まれまして」
「何だよ。俺と付き合いたいってか? 」
 口に出してはみたものの、ハナから期待は持っていない。
「橘さんみたいな結婚不適合者なんて、誰も相手にはしません」
 案の定、即座に否定された。
「バツ2で、離婚原因は二回とも奥さんの浮気でしょ」
「何でお前がそれを知ってるんだよ」
 俺に妻がいたのはまだ二十代の頃で、いづれもたかだか一年足らずの結婚生活だった。
「そんなもの、公然の秘密ですよ」
 同課の連中はおもしろおかしく味付けをして、橘修吾の汚点を後輩に吹聴しているようだ。 
 一度目の妻は離婚してから、どこやらの企業の重役秘書の職に就き、現在は海外を飛び回っているらしい。度々国際電話を掛けてきては、年下の恋人が出来ただの振られただの、いちいち聞かされる羽目に陥っている。
 二度目の妻はかつて生活安全課に勤務していた。離婚後、その浮気相手と再婚し、三人目の子供が産まれたと今年の正月にハガキでわざわざ報告してきた。
 裏切っておいて、平然と幸せをアピールするその神経の図太さは、磯山に通じるところがある。未だに細く長く元妻らと繋がっているのは、俺がその性格を大いに気に入っているからだ。 
 だから、元妻と性格が似通った磯山のことも無下には出来ない。
「じゃあ、俺に何の用だよ」
 結局、磯山の言いなりだ。
 文句を垂れつつ耳を傾ける姿勢の俺に気を良くしたのか、磯山は満面の笑みだ。
「秋葉警視を紹介してくれないかって。佐山のミナちゃんが」
 磯山と同期の女性警察官だ。磯山を巧みに小間使いにしている印象しかない。
「何で俺が」
「仲良いじゃありませんか」
「良くねえよ」
 むしろ敵対意識を持っている。俺が一方的にだが。
「ミナちゃんて、あんなのが好みなのか? 趣味悪過ぎだろ。あんな腹の黒いやつ」
「よくも堂々と上司の陰口が言えたものですね」
 不意打ちの第三者の声に、俺と磯山は同時に跳ね上がった。
 関心しませんね、などとフンと鼻を鳴らす男を正面に、危うく咥えていた煙草を取り落としそうになる。
「あ、ああああ秋葉課長」
 咄嗟に立ち上がり姿勢を伸ばす俺を横目に、秋葉は腕を組んで壁に凭れかかる。
「そういった話は、出来れば本人のいないところでしてほしいものですね」
 秋葉が喫煙している姿は、彼が七福中央署に配属されて数カ月を経るが一度として見たことはない。彼の手には自販機の缶珈琲がある。休憩にベンチを占有しようとして、先客の会話を耳にしてしまったのだろう。
「でも、でも。うちの署内の女子全員、秋葉課長のファンですよ」
 一言余計なのは俺と似たりよったりだが、磯山が他課の連中にも可愛いがられているのは、巧く媚びて取り入る人懐こさがあるからだ。
「何故、橘さんでは駄目なんですか? 」
 しかし秋葉は大袈裟なくらいの磯山のヨイショを無視し、他の連中とは違うところを見せつけた。
「一度も仕事を休んだことのない熱心さでしょう。それに、なかなかの男前だ。背だってそれなりに高い方ですし」
 俺はむっと眉根を寄せた。確かに皆勤賞は毎年受けている。容姿も父親譲りで男臭い、よく言えば凛々しく、やや吊り上がった二重の目や鷲鼻、輪郭の際立つ顔立ちは、物は言いようで渋いと表現出来なくもない。秋葉には劣るものの、百七十五センチには何とか到達している。
 しかし、何もかも兼ね備えた相手から評価されても、褒められている気がしない。
 自販機の珈琲を口に含む様さえ何やら淫靡な雰囲気を醸し出しているその姿が、癪に障る。
「ああ、駄目駄目。駄目ですよ、秋葉課長。確かに逞しい体してるし、まあまあ顔はいけてますけど。この人、本当に朴念仁で。口は悪いし。女の気持ちに全然疎くて。男として見られたもんじゃありませんよ」
「おい、そこまで言うか。お前」
 好き放題の物言いにむっと顔をしかめれば、磯山は委縮するどころか、それみたことかと言わんばかりにふんぞり返った。
「ほら、自覚のないところが性質たちが悪い」
 何を言っても暖簾に腕押しの磯山に、頭を抱えてしまう。
「俺は女の敵かよ」
「むしろ、敵以前の問題ですね。話にならない」
「お前なあ」
 こうも自信たっぷりに宣言されては、最早、怒る気も失せる。短くなった煙草を灰皿に揉み消すと、二本目を咥える。
「ああ、でも。確か交番勤務だった頃に、女子中学生に熱心に口説かれてたことありましたよね」
 俺が反論しないことで調子に乗った磯山は、さらにべらべらと余計なことを喋り出す。
「何でお前がそれを知ってるんだよ」
 制服警官の頃は所轄も違っていたので、当時を知る者は署内にはいないはずだ。磯山がどこで情報を仕入れてくるのは甚だ疑問だが、人の過去をほじくり返すことにかけては群を抜いている。たまには捜査にそれを生かしてほしい。
「興味深い話ですね」
「くだらない昔話ですよ」
 珍しく秋葉が話に食い付いてきた内容が、自分の過去に触れていると思うと話を進める気にはなれない。素っ気なく遮ろうとしたが、磯山がまたもや余計なことを仕出かした。
「何でも、不良に絡まれてた女の子を助けたら、それ以来、懐かれたんですよね。毎日、毎日、雨の日も風の日も関係なく、交番に通って来たんでしょ」
 無視を決め込むつもりだったが、秋葉が無言で答えを求めてくるので、そうもいかない。渋々と頷いた。
「まあな。『手作りのクッキー、一生懸命作りました! 』って感じで可愛かったよ」
「毎回焦げていたのに、随分とした褒めようですね」
 呟いて、秋葉は缶珈琲を一気に呑み干した。
 俺の目が大きく見開いたのは、自分でもわかった。煙草に火を点けかけてそれを中断し、秋葉を凝視してしまう。
「何か? 」
 視線を感じ、秋葉は眉をひそめた。
「べ、別に」
 何故か頬が熱くなって、慌ててそっぽ向いた。綺麗な顔をしていても、秋葉恵一はやはり男だ。上下する喉仏は出っ張っている。
「でも、そんな健気な子に、橘さんったら『もう来るな』の一言ですよ」
「人聞き悪いこと言うな。俺なんかに構うより、受験生なんだからそっちに気を回せって助言しただけだよ」
「ほら、やっぱり。全然、女心がわかってない」
「うるせえな。そもそもあの子は」
「結局その子も橘さんの本性知って、現実に戻っちゃったんですよね。まあ、一年もよく保ったもんですよ」
「だから何でお前はそう、見て来たように知ってるんだよ」
「どうしてるんでしょうねえ、その子。トラウマになってなきゃいいけど」
「失敬なやつだな、お前」
 磯山にいちいちほじくり返されなくても、俺だってその中学生のことはよく覚えている。
 瞳が大きく中世的で、子供にしては妙に艶っぽい雰囲気の子だった。受験勉強もあるだろうしと気を利かせたところ、逆に機嫌を損ねさせてしまったのかそれきりで、確かに引っ掛かってはいた。俺のことを嫌になったのだろうかと、叶うことなら今すぐにでも聞いてしまいたい衝動に駆られる。
「その中学生は、今でも橘さんに感謝していると。私はそう思いますが」
 不意に秋葉がフォローを入れてきたので、驚いてまだ火の点けていなかった煙草を床に落としてしまった。
「ななな何、言ってるんですか。課長」
 能面で自尊心の高そうな人物がよもや自分を援護するとは思いもよらず、動揺を隠しきれない。拾おうとした煙草が指先から何度も滑る。
「そうそう。今頃は彼氏とイチャイチャして、心の冷たい警察官のことなんて、頭の隅にもありませんよ」
「お前はもう黙ってろ、磯山」
 いい加減にいらいらしてきたので声音を低くしてみたものの、日常茶飯事ですっかり慣れてしまっている磯山にはまるで効かない。そればかりか、さらに何かを掴んでいるのか、暴露したくて仕方ないと言わんばかりに口元がふるふると揺れている。
 しかし、磯山の暴露話が言葉になることはなかった。
「橘さん、そろそろ休憩時間は終わりですよ。いつまでも愚図愚図されていては困ります」
 秋葉が苛立った口調で無理繰り中断させたからだ。
 いつにも増して秋葉が発する温度が低いことに、さすがの磯山もぶるっと身震いし、危機意識を最大限に発揮して、慌てて喫煙室から逃げ出して行った。
 つんのめりながら走り去る磯山の背が小さくなっていくことに、やれやれと額の汗を拭って息を吐く。まさか助けてくれたのだろうか。秋葉の意外な一面を垣間見た。
「会議室で待っています。遅れないように」
 礼を述べるべきかどうか迷っているうちに、秋葉は短く命じると、空の缶を片手に屋内へと体を向けた。歩く速度は、何も話しかけてくるなと言わんばかりだ。
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