君と国境を越えて

朱村びすりん

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第四章

今度は俺の番

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 一刻も早く、彼女を休ませたい。すぐさま行動に移すべきだ。

 俺はスマートフォンを握りしめ、配車サービスアプリをダウンロードし、早急にタクシーを呼び出した。数分もしないうちにタクシーがやって来て、俺は彼女を支えながら車に乗り込む。
 ずぶ濡れ状態の俺たちを見た運転手は、とても驚いた顔をした。シートには防水カバーが施されていたものの、いくらなんでも迷惑だったかなと不安が過る。
 だが運転手は快く迎え入れてくれた。なおかつタオルまで貸してくれた。
 タクシー以外に帰る手段が思いつかなかったので、本当に助かる。
 山下公園から自宅マンションまでは、およそ十分の計算。バイト代で料金は支払えるだろう。

 タクシーに乗った安心感から、肩の力が抜けた。大丈夫、きっとなんとかなる。
 俺が束の間安堵していたときだった。隣に座る彼女が、俺の肩に頭をそっと乗せてきた。虚ろな目をし、息が上がってしまっているではないか。
 いたたまれなくなり、俺は自然の流れに任せて優しく彼女の肩を抱きよせる。

 色んなことが重なって、急遽自宅に彼女を招く事態となった。冷静に考える余地もなかった。俺の肩に身を委ねる彼女を見て、俺は急激に全身が熱くなる。

 ──夢を見ているのか、俺は?

 一瞬だけそう迷ってしまった。それほど現実味がない。
 けれど、彼女の熱が、たしかに俺の隣に存在している事実を教えてくれた。
 夢なんかじゃない。ならば、彼女をしっかりと守らないといけない。
 タオルで彼女の背中を包み、俺はそっと手を握りしめた。その指先は、とても冷たくなっていた。



「ずいぶん、手際がいいのね」

 掠れた声で彼女はそう呟いた。
 俺は料金を支払い、運転手にタオルを返して礼を言ってからタクシーから降りる。
 よろける彼女の肩に腕を回し、俺はすかさず体を支えた。

「手際がいいって?」
「タクシーを呼ぶなんて驚いたわ」
「ああ……だって、それしか方法がないだろ?」
「迷惑かけて悪いわね」
「全然。それより、早く家に行こう」

 彼女は一切「辛い」とは口にしない。体が小刻みに揺れ、素直に俺に身を委ねてくる様子からして、だいぶ体に負担がかかっているはずなのに。

 エントランスへ入り、エレベーターに乗り、五階を目指す。
 無言でいると、彼女の辛そうな呼吸音がはっきりと聞こえてしまう。耳を逸らすように、俺はなんでもない話で場を和ませようとした。

「俺の部屋、ちょっと散らかってるけど笑わないでほしい」
「……ええ。気にしないわ。でも、本当にお邪魔してもいいの?」

 エレベーターが五階へ到着し、俺は彼女の歩幅に合わせて部屋を目指した。あと数歩で辿り着く。

「いいよ。今、親もいないし」
「……え?」
「旅行に行っててさ。結婚記念日なんだ。うちの両親、すごく仲良いんだよな」

 ちょうどよかったよ、と俺が笑うと、彼女は急に立ち止まった。俺も反射的に足を止める。
 なぜだか彼女は、怪訝な表情を浮かべていた。

「ご両親が、いないの……?」
「そうだけど」
「他に家族は?」
「いないよ。だから、気遣わなくて済むだろ?」
「……」

 彼女はおもむろに俺の手を振りほどいた。さっと背中を向け、首を大きく振る。

「だったら、帰るわ」

 彼女は肩で息をしながら、廊下の手すりを掴んだ。

 予想外だった。
 突然帰るだなんて。立っているのも辛そうなのに、今さらなにを言い出す?

 疑問符を浮かべながら、俺は彼女のそばへ歩み寄った。

「そんなフラフラな状態で帰るのか?」
「あなたも少しは察して。誰もいない家に女を上げるなんて、非常識よ……?」

 そう言われ、俺の心臓が飛び出そうになった。
 
 冗談じゃないぞ。意識しないよう密かに努力していたのに、まさか彼女の口からそんな言葉が出るなんて。

 流れる血が沸騰しそうになるほど、俺の全身が熱くなる。
 
 取り乱すな。ここは、落ち着いて話をしよう。彼女を休ませてあげることだけを考えろ。

「俺がそんな悪い奴に見えるか?」
「……そういうわけじゃないんだけど」
「家に誰もいないと説明しないで連れてきたのは、本当にごめん。だけど、こんなに酷い熱があるサエさんを放っておけないんだ」

 俺は彼女の前に立ち、じっと目を見つめた。

「ゆっくり休んでほしいから、部屋を貸すだけだよ。あとはなにもしない」

 こんな状況になるなんて、俺も予想していなかった。自宅に呼び出し、好きな人と二人きりで過ごすなんて、なにか間違いが起こってもおかしくない。
 と言っても、俺は恋愛経験が全くないチェリーボーイだ。その気があっても行動にする勇気なんてないんだ、悲しいことに。
 だが、これだけは自信を持って言える。彼女が嫌がるようなことは一切しない。彼女のためを思って、最善のことをしてあげたいだけなんだ、と。
 頭の中で並べた数々の台詞を、俺は心の中だけで留める。

 彼女は、小首を傾げて弱々しくこんなことを訊いてきた。

「……どうして、イヴァンはそこまでしようとするの?」

 彼女は切ない瞳でそう訴えてきた。

 ──どうしてって。そんなの決まってる。「サエさんのことが好きだから」。声にして言うことはできないが、それが一番の理由だ。

 彼女に微笑みかけ、俺は別の理由を口にした。

「サエさんは今まで俺を助けてくれた。だから、今度は俺がサエさんを助ける番」

 俺の言葉を聞いた彼女は、目を細めた。優しい眼差しに、俺の心音は大きくなる一方だった。
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