秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第五章 擾乱の半島編

82 悪化する半島情勢

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 時は、皇都に陽鮮での政変の知らせが届く以前に遡る―――。





 倭館に刺客が侵入し、一夜明けた七月二十一日、冬花は昨夜の様子が嘘のように回復していた。
 暴走しかけた妖狐の血を景紀の血を啜ることで鎮め、結果として妖狐の血は彼女の体内で蠱毒の呪詛を喰らい尽くす方向で活性化したのだろう。

「お前が無事で、本当によかった」

 冬花本人よりも、景紀の安堵の方が大きかった。

「迷惑かけて、ごめんなさい」

 寝巻の白い着流しから着替えながら、冬花は言う。
 傷口から広がっていた壊疽のような黒ずみはすっかり消え去り、冬花の肌は普段と同じ白さを取り戻していた。

「迷惑なんて思っちゃいないさ」衝立の向こうで、景紀は小さく笑みを浮かべる。「お前が無事なら、俺はそれでいい」

「もう……」

 冬花も小さく笑って、ぎゅっと胸にさらしを巻き付ける。それから肌襦袢を身に付け、着物をまとって帯を締める。袖に呪具を仕込み、腰に刀を差して衝立の向こうに出た。

「で、館内の様子は相変わらずなの?」

「だな。正直、早く外務省なり兵部省なりからの訓令が欲しい」

「皇都も混乱しているのかしら?」

「恐らくな」景紀は頷いた。「伊丹・一色派がどう動いているかは知らないが、そもそも王族の身柄がこちらにあるという事態は、誰も想定していなかったはずだ。もちろん、頼朋翁もな。それに、アルビオン連合王国やルーシー帝国、斉の動向も見極めた上で、今回の対応を決めなければならない。向こうも帯城城内の情報は冬花からの通信頼りだから、判断材料が少なすぎて結論が出せなくなっているんだろう」

「それでも、出してもらわないと困るわよね」

「まったくだ」

 不満そうな調子を隠そうともせずに、景紀はそう言うのであった。

  ◇◇◇

「昨日は、貴殿らに助けられたのじゃ」

 朝食の席で、貞英が申し訳なさそうにそう言った。

「じゃが、景紀殿の姫を危険に晒してしまった。申し訳ないのじゃ」

 今、景紀の居室には、部屋の主以外に冬花、貴通、宵、八重、鉄之介、それに貞英公主に熙王子、礼曹佐郎の金光護の九名が集まっていた。
 部屋には、昨日、冬花が即興で開発した通訳用術式をかけて双方の会話を円滑に行えるようにしている。

「公主殿下、刺客の連中に、心当たりは?」

 景紀の問いかけに、貞英は力なく首を振った。

「判らぬ。だが、暗行御史アメンオサの術師かもしれぬ」

 暗行御史とは、国王直属の諜報員・監察官の総称である。そうした者たちの中には、宮廷呪術師たちも混じっているという。

「つまり、国王直属の者たちですら、裏切った可能性があると?」

「いや、暗行御史は我が祖父たる太上王に仕えておる者たちもおる。その者たちが、妾らを殺しに来たのかもしれぬ」

「……」

 結局のところ、刺客の正体について確証は得られなかった。鉄之介や八重が捕らえた刺客に暗示の術をかけて情報を引き出そうとしたが、それも失敗に終わっている。

「景紀様、刺客の正体を探ることに、この状況でどれほどの意味があるのでしょうか?」

 景紀の隣に座っている宵が、冷静というよりも淡々とした口調で指摘した。昨夜、八重が庇っていなければ命を落としていたかもしれないというのに、その表情からは怯えの残滓すら読み取れない。

「少なくとも、両殿下を狙っている者がいる、そしてその者は両殿下を害した罪を秋津人に被せることで反秋津感情を激化させる思惑を持っている。この二点が判明しているだけで十分かと。現状、我々自身が積極的な行動に出られない以上、刺客の正体を探るのは時間と労力の浪費では?」

「宵の指摘は、一面的には正しい」

 景紀も、内心では宵と同じ考えを抱いていないわけではないのだ。だが、それでもある程度、刺客の正体に目星を付けておくことは意義があると思っている。

「だが、ある程度、刺客の正体に目星が付けば、密かに仁宗国王に警告を発することも可能になる」

「どういうことでしょうか?」

 宵は生徒のような口調で尋ねてくる。
 根本的な問題として、自分たちは倭館から動けず、京畿監営の者たちも城門が閉ざされている以上、王宮への使者を走らせることは出来ない。この状況でどう国王に警告を発せられるのか、疑問に思っているのだろう。

「貞英殿下に国王宛の書状を書いてもらって、それを冬花に式として王宮に届けさせるんだ」

「ああ、なるほど」

 即座に、宵は納得したようだった。呪術師をどう使うかという点について、宵の発想は冬花と付き合いの長い景紀には一歩も二歩も及ばないのだ。これもまた勉強だな、と宵は思う。

「いや、それは少し難しかろう」

 だが、貞英が今の二人の遣り取りに異を唱えた。

「術者に文を届けさせるという発想は良かろうが、王宮の者がそれを素直に父上に取り次ぐとは思えん。王宮内の誰が味方で誰が敵かも判らぬ状況では、握り潰す者も出てこようし、秋津人の謀略と叫ぶ者も出てこよう。さらに言えば、王宮に式を潜り込ませようとすれば、宮廷呪術師たちが呪詛と警戒しかねん」

「……やっぱり、少し難しいか」

 すでに、城内の様子を探るために、冬花には多数の式を城内に送り込んでもらっている。これだけでも正体不明の術者による式として、陽鮮側術者を警戒させるのに十分であるのに、この上、王宮にまで式を飛ばせば敵対者による呪詛などを疑って当然だろう。
 景紀はあくまで一案として考えていただけなので、即座にその案を取り下げることにした。
 この状況下で、冬花の霊力を無意味に消耗させたくなかった。

「刺客の件ですが、そうなると城内の騒乱も何者かの思惑が働いていると判断すべきでしょうか?」

 そう疑問を呈したのは、貴通であった。実際、あまりにも状況は出来すぎているともいえた。

「いや、俺は偶発的なものだと思う」だが、景紀の意見は違った。「多少、裏で攘夷派の連中が煽動していたかもしれないが、騒乱が発生した時刻と刺客が送られてきた時刻が噛み合わない。普通は、先に両殿下を殺してその責任を皇国側になすりつけて、反秋津暴動を発生させるのが攘夷派にとって都合のいい展開のはずだ。特に、これが太上王の復位とか、そういう簒奪を目指した陰謀であるならば、公主殿下や王子殿下の身柄を確保出来ないこの状況は拙い。簒奪のためには、正統な王位の継承を主張出来る人間を事前に排除しておく必要があるからな。でないと、簒奪した奴の権力基盤が酷く不安定なものになる」

「確かに、景くんの意見にも一理ありますね。まあ、この問題の検証は後世の歴史家に任せるべきでしょうかね」

 貴通もあくまで可能性の一つを提示しただけであるらしく、積極的に反論しようとはしなかった。

「そんなことよりも、早く食べましょうよ。結論が出ない問題を話したって、時間の無駄でしょ?」

 一部の人間たちの話に辟易してきたのだろう、八重が鋭いというか、痛烈ともいえる指摘をしてきた。

「まあ、それもそうだな」

 景紀は、思わず苦笑を浮かべてしまった。確かに、結論の出ない議論をするよりも、早く朝食を食べて、倭館の防衛準備など情勢の変化に対応出来る備えに時間を割いた方がいいだろう。

「じゃあ、食うか」

 朝食に出されたのは、野菜などが入ったすいとんであった。

「今朝の内に、館長に頼んで周辺の村々から野菜や卵などを買い集めさせたんです」箸をつけながら、貴通が報告した。「帯城の城門が閉まった所為で、周辺の農民たちが城内の人間たち相手に朝市を開けなくなったらしく、結構な人たちが京畿監営やここに売り込みに来ていたもので」

「ああ、助かる」

 自分は昨夜から冬花のことに掛かりきりに近い状態になっていたので、気の利いた同期生の存在は素直にありがたかった。

「いえ、兵站の管理は景くんの幕下として当然のことですから」

 そんな景紀の言葉に、貴通は嬉しそうな笑みを浮かべる。
 そうして朝食を食べ、倭館の防衛準備や兵士たちの教練、外務省警察との連携訓練などを行いながらも、時間は無為に過ぎていく。
 この日、本国から届いた通信は、ほとんどが帯城城内の騒擾の詳報を求めるものばかりであった。冬花は式を放って状況の把握に努めようとしたが、正直、城内の状況を完全に把握することはこの時点ではほぼ不可能となりつつあった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 後世の視点から見れば、二十一日の状況は二十日に比べて悪化の一途を辿っていたといえる。
 七月二十一日、前日に集まった兵卒や群衆は、今度は豪商や役人の邸宅の打ち壊しを行い始めていたのである。王都の治安を維持すべき捕盗庁は二十日の時点ですでに襲撃を受けていたために機能不全に陥っており、彼らを鎮圧するだけの力は存在していなかった。
 一部では火を付けられた建物もあり、その煙は高台に位置する倭館からも確認出来たという。ただし、この段階でもまだ城門は閉ざされたままであり、混乱は帯城城内に収まっていた。
 仁宗国王はこの間、兵を動員して暴動の鎮圧を図ろうとしたが、そもそも暴動を最初に起こしたのが末端の兵士たちである以上、鎮圧のしようがなかった。
 暴動を収める唯一の策は、敦義門事件を起こした兵士を無罪放免にすると宣言を出すことであったが、そのようなことをすれば暴動に屈したことになり王の権威は失墜する。しかし、そうしなければ暴動は収まりそうにない。仁宗国王はこうした二律背反に陥っており、有効な命令を下せずにいた。
 その間にも暴動は激化していき、暴徒によって豪商や役人が殺害される事態まで発生していた。この中には、不正役人の首魁と見なされた帯城判尹も含まれていた。
 ただし、ここまで来ると暴徒たちも最早処罰を免れないと覚悟せざるを得なくなったらしい。
 ために彼らの代表者たちは太上王・康祖の離宮に向かい、自分たちの進退を決してくれるよう哀訴した。
 この当時、秋津皇国やアルビオン連合王国がある程度察知していたことではあるのだが、息子である仁宗の開化政策に不満を覚えていた太上王・康祖とその影響を受ける攘夷派官僚・両班たちは、密かに仁宗を退位させる簒奪計画を立てていた。しかし、皇国や連合王国の情勢判断と違い、それは太上王の復位を目指すものではなかった。太上王派の新政権構想は、自らと思想の近い王世子・李欽を新たに王に推戴し、太上王がその補佐をするというものだったのである。
 この計画のために、旧守派の両班や攘夷派儒学者たちは密かに資金を集め、募兵と斉からの武器の購入を行っていた。
 二十日夜に倭館へ刺客の術者が侵入したのも、太上王に仕えていた暗行御史アメンオサたちの工作であった。倭館で王族が害されたことを口実にして、国内で攘夷の気運を盛り上げるためである(また、李欽王世子にとって新政権樹立の際に邪魔となる弟・李熙の抹殺という動機もあった)。
 そうして口実を求めていた彼らにとって、王都・帯城での暴動発生は決起のための絶好の機会であった。太上王は哀訴に来た暴動の代表者たちに、不正役人は必ず一掃し、近邑(陽鮮における「邑」は、道の下の行政単位)の守令(市町村長に相当)に未納税米の納入を厳命すると約束し、「斥邪討倭(邪学を斥け、秋津人を討つ)」を唱えて王宮へ向かうよう唆した。
 こうして七月二十二日、無秩序な暴動と化していた帯城での騒擾は、一定の方向性を与えられることになった。彼らは王宮・景徳宮に向かって進行し、声を上げて「斥邪討倭」を連呼した。
 そして、これに呼応して宮中では王世子・李欽が決起、父王・仁宗と母である王后を景徳宮の一室に軟禁、蜂起軍民に護衛された太上王・康祖を王宮に迎え入れ、以後一切の政務は王世子・李欽が執るとの伝教(実質的な勅命。陽鮮は「勅」の字を中華帝国の皇帝に対して畏れ多いとして使用していない)を下した。
 これが、二十二日、皇都にもたらされた陽鮮での王位簒奪の知らせであった。
 そして、半島を巡る情勢は、ここからさらに悪化していくこととなるのである。
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