秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第五章 擾乱の半島編

81 東亜新秩序

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 皇暦八三五年七月二十二日。
 皇都のとある講堂は、人々の熱気に満ち溢れていた。

「今まさに、東亜情勢は変革の時を迎えようとしているのであります」

 壇上に上がった人物は、会場全体に響くような声で熱弁を振るっている。

「西では凍土を越えてルーシー帝国が東洋を脅かし、東では荒波を越えてヴィンランド合衆国が泰平の海を脅かしております。しかるに、東亜は未だ旧体制の中に眠り続けているのであります。頑迷固陋にも華夷秩序を叫ぶ斉、その斉の属国たるを良しとする陽鮮。ただ皇国のみが、大陸と大洋の彼方より迫り来る魔手より東亜を守護する力を持っておるのであります。この時において、皇国は東亜の安定勢力となりて東洋の平和を維持し、諸国民の安寧福祉に貢献することが求められているのであります。しかるに、その皇国までもが旧体制に囚われ続けている。これまさしく、外交当局者の怠慢と言わざるべからざる状況であります」

 あからさまな政府批判にも関わらず、会場の聴衆からは同意の叫びが上がる。

「皇国は万世一系の皇主陛下の頂く、万邦無比の神国であります。しかるに、この度の陽鮮での不祥事において政府の外交姿勢は軟弱極まるものと申さざるべからず! なにゆえ、皇主陛下の臣民たる我らが陽鮮の国王に膝を屈さねばならないのか! 今この瞬間も、陽鮮では我ら同胞が陽鮮国王の前にて屈辱的朝貢的儀礼を強要されているのであります! これは我が皇国の国体を毀損する行為であり、断じて受入れられぬものであります! すでに斉の衰退は明らかであり、陽鮮もまた然り! ここに於いて皇国は華夷秩序なる旧態依然たる体制を脱し、真に東亜諸民族の安寧福祉に貢献すべく、東亜に新秩序をてる重大なる使命を帯びているのであります!」

 聴衆たちは「そうだそうだ!」、「軟弱外交反対!」、「東亜新秩序を樹立せよ!」などを口々に叫んでいく。
 会場の老若男女は、演者の国粋主義的演説に浮かされたように興奮していた。
 その中に、シャツを着込んだ着物姿の学生もいた。眼鏡をかけた文学青年のようにも見える彼もまた、演者に声援を送るように叫んでいる。
 そして、驚くべきことに学生らしき聴衆は彼一人だけではなかった。他にも多数の青少年たちが、壇上から流れる演説に興奮気味な表情を浮かべていたのである。
 壇上の演者は聴衆の熱気を巻き込みながら、なおも東亜新秩序を鼓吹する演説を続けていた。





 演説会場にいた眼鏡姿の学生は演説が終わると、近くの公園にある公衆便所に向かった。
 扉を閉め、中で眼鏡を外してさっと衣服を着替える。
 便所から出てくると文学青年じみた学生の雰囲気は微塵もなくなり、粋に着物を着崩した細目の青年の姿に変わっていた。
 火の付いていない煙管を咥え、その青年―――朝比奈新八は皇都の雑踏の中へと消えていった。

  ◇◇◇

「いや、結構若い学生連中が“東亜新秩序”とかいうけったいなもんに浮かされておるようや」

「何とも困ったものだな」

 皇都郊外の有馬家別邸の庭園で、景紀の雇った元牢人の忍は、有馬頼朋に先ほどまで聴衆として参加していた講演会の様子を報告していた。
 有馬翁は自慢の庭園で、とげ抜き片手に苔の間に生えた小さな雑草を取っている。

「しかも演者は蓬莱倶楽部の代議士先生や」

 蓬莱倶楽部は、衆民院の中で伊丹・一色派に属する吏党勢力であった。対外硬派政党の一つとしても知られている。

「ふん、伊丹・一色の差し金か」不愉快そうに、頼朋翁はとげ抜きで雑草を引き抜いた。「いや、連中も案外対外硬派を制御出来なくなりつつあるのかもしれんな」

「難しい政治の話を僕にされても困るで」

「そうだな」

 少しだけ物足りなそうな口調で、六家長老の老人は言った。案外、この庭造りが趣味のご老公は、景紀がいなくなって寂しいのかもしれない。そんな皮肉な思いを、新八は抱く。

「少し、休むか」

 額の汗を腰に下げた手ぬぐいで拭って、頼朋翁は言う。
 彼は庭園を一望出来る屋敷の縁側まで戻り、そこに腰を下ろした。屋敷の女中が、冷えた麦茶を持ってくる。
 一方の新八は、縁側の柱に背を預けて立っていた。

「国民が過度に対外強硬論に走るのは厄介ではある」ごくりと一口、麦茶を飲んで、頼朋翁は言った。「もっとも、貴様にそれを言っても詮無いことだがな」

「老人の愚痴に付き合うのも、なかなか疲れるもんやなぁ」

「ふん、道化めが」

 ちらりと険しく、頼朋翁は新八に一瞥をくれる。景紀が陽鮮へ行っている間、新八は頼朋翁の指示で皇都の情報収集に努めることになっており、様々な場所に潜入してそこで見聞きした情報をこの老人に届けていた。

「で、厄介事と言えば貴様の主人の実家もだ。側用人と重臣連中の対立が深まっておるようだな?」

「まあ、去年あたりから怪しくなってきたんやが、ちょいと冬花の嬢ちゃん……まあ正確には若が打たせたんやろうが……その通信文が拙かったんやろな」

 いつもは軽薄そうな表情に見える新八の顔に、あからさまな憂慮の色が浮かんだ。
 結城家当主・景忠の側用人・里見善光が、景紀が送った邦人引き揚げに関する意見具申を将家次期当主にあるまじき軟弱姿勢であるとして、結城家内で問題にしているのである。
 半島のど真ん中で、五〇人に満たない兵しか持たない景紀にとってみれば、帯城倭館からの全員引き揚げの意見具申は当然のものであったのだろうが、現地の情勢を詳しく知らない人間からしたら臆病風に吹かれたように見えたのかもしれない。
 いや、里見善光にとってみれば、自身の側用人としての立場を脅かしかねない冬花の主である景紀を廃嫡するためなら、口実など何でも良かったのかもしれない。
 軍人としての経験もある重臣たちは景紀の置かれた難しい立場に理解を示しているようであり、それが結果として里見と益永ら重臣たちとの対立激化に繋がっていったのである。

「はぁ、若、早く帰ってきぃへんかなぁ……」

 思わず、新八は愚痴を零してしまう。

「貴様、軽薄そうな見た目の割りに、随分とあの小僧に入れ込んどるようだな?」

 新八の愚痴を、意外そうに頼朋翁は聞き咎めた。

「まあ、僕は若に恩があるんよ」

「牢人だったところを雇ってもらった恩か?」

「いや、雇ってもろうたのはある意味ついでのようなもんや。恩が先で、だから僕は若に仕官しとるんや」

 隠密としての弱みになるので、新八は詳しいことをこの老人に話すつもりはない。
 だがそれでも、景紀に恩があるという新八の言葉には偽りはない。
 新八の生まれである朝比奈家は、もともとは地方の将家に仕えていた隠密、その中でも特殊技能を有する忍の家系であった。だが、主家は財政難に陥り、土地と人民を皇主に返上することとなり、家臣たちの多くは牢人となった。
 まだ幼かった新八は、父と母、そして姉に連れられて領地を出た。
 牢人として各地を放浪した朝比奈家が最終的に辿り着いたのは、皇都であった。列侯会議が開かれるために全国から諸侯が訪れる皇都ならば、仕官先が見つかりやすいとでも父は思ったのだろう。
 だが、そう簡単にいくものではなかった。
 すでに将校教育制度と徴兵制度が整えられていた皇国においては、牢人がそのまま軍人として用いられることはない。あるとしても、北溟道の開拓使や、氷州や日高州、あるいは新南嶺島といった植民地の開拓義勇兵という名の開拓民警備役程度である。
 開拓義勇兵とは、要するに現地を開拓しつつ生蕃(原住民のこと)などによる反乱などから一般の開拓民を守ることを任務としている者たちのことである。準軍人ではあるが、正規の軍人ではない。
 だが、隠密として忍の技を鍛えてきた父は、あくまでも隠密として再び将家に仕えることを目指していた。
 放浪中と同じく仕官先は見つからず、困窮の中で母は病に倒れた。
 薬代を稼ぐために、姉は花街で身売りをせざるを得なくなった。この時代、貧困農民の娘や没落した良家の娘が娼妓や芸妓となることは、特段、珍しいことではない。特に没落華族や没落士族の娘は教養があるため、娼妓や芸妓として高く売ることが出来た(なお、一方の男は開拓使などにならないのならば、人力車夫などになる者が多かった)。
 姉は、病身の母の治療だけでなく、まだ十歳を過ぎたばかりの弟にしっかりとした学を付けさせたいと願っていたのだろう。薬代だけでなく、新八が高等小学校や中学校へ進学出来るだけの学費も稼ごうとしていた。
 そうした中で、姉は景紀に出会ったという。最初は、警戒心の強い華族の少年だと、姉は評していた。
 後に景紀からも聞いた話によると、十二歳の時のことだったらしいから、今から六年以上前のことだろう。
 どうも、景紀は兵学寮の先輩連中に無理矢理付き合わされたらしく、終始、不機嫌そうな顔を隠そうともしなかったという。ある意味で冬花一筋の景紀にとってみれば、先輩たちの誘いは迷惑千万だったのだろう。すでに兵学寮の者たちの間では、この六家の次期当主が白髪赤眼の少女を寵愛しているという事実が知れ渡っていたという。
 しかも、次席の貴通まで連れてこられたらしい。
 今まで新八は、その時の景紀の警戒心の強さは冬花という存在がいるからだと思っていたが、恐らく貴通が女であることを隠し通すために気を張っていたのだろうと、最近では思っている。
 一方、姉としては六家の次期当主と公爵家の息子は金を稼ぐのに絶好の相手だと思ったのだろう。実際、華族の側室には娼妓、芸妓上がりの女性も多く、政治家や豪商であれば彼女たちを身請けして妻とする者たちもいる。
 あるいは、そうして擦り寄ろうとする姉の態度を、景紀は不快に思っていたのかもしれない。
 ただ、何故か景紀はその後も何度か姉の元を訪れていた。景紀本人の言葉によると、将来的に陰陽師の少女を側に侍らせるに際して彼女の体調面を気に掛けておくのが主君たるものの役目だとのことであるが、どこか言い訳じみていて姉が不思議がっていたのを覚えている。これもやはり貴通の存在が関係しているのだろう。
 景紀は景紀で、貴通という少女のために自身に擦り寄ってくる姉を利用しようとしていたのだ。
 当時の新八は、家に稼ぎを収めに来る姉からそうした話を聞くだけで、実際に景紀に会うことはなかった。一年と経たず、姉の口から景紀の名が聞かれなくなったからだ。
 景紀も、貴通がある程度、女としての体の不調に自分自身で対応出来るようになったので、わざわざ遊女たちにそうした不調への対応方法を聞きに行く必要がなくなったのだろう。
 その後、治療の甲斐なく母は病死したが、姉は娼妓を続けた。自分が残された家族を養っていかなければならないと思っていたのだろう。
 二年経って景紀たちが十四歳になった頃、姉は客から病を移された。遊女が梅毒などの死病に冒されることは、花街ではさして珍しいものではなかった。そして、当然ながらそうなってしまえば娼妓としての価値はない。
 新八はそこで、景紀という存在を思い出したのだ。
 姉の治療費を得るために、景紀の下に金の無心に行った。当然、六家にはそうした連中が何人も訪れるのだろう。最初は相手にもされなかった。
 ただ、自分が忍の家系の出てあることが景紀の興味を引いたのか、自身の依頼を受けることを条件に治療費を工面してくれた。
 そして、景紀は新八の密偵としての能力を知りたかったのだろう、連日のように新八に様々な情報を集めてくるように命じた。その大半は、下らないものだった。
 ただ時折、皇都の有力者の醜聞や商売に関係する情報を集めてくるように命じることがあったので、恐らくは様々な情報を集めさせつつ、新八がどこまで自身の命令に忠実に従うのかを試していたのだろう。
 新八は、どんな下らない情報収集任務でも不平一つ零さず、景紀の指示に従った。
 それが結局、景紀に認められる要因となったのだろう。
 姉は景紀が兵学寮を卒業した約半年後に亡くなってしまったが、少なくとも不幸な死に方ではなかったと新八は思っている。
 病に冒されて遊郭を追放された後、野垂れ死ぬこともなく、ある程度の治療は受けられた。弟が仕官先を見つけるところまで見届けることが出来た。
 幸福とはいえないまでも、新八が世間を恨むほどには惨い死に方ではなかった。女の隠密の中には捕らえられて嬲り殺される者もいるというから、忍の家系の出としては、比較的穏やかな死に方だったと、最低限の納得はしている。
 そして景紀が兵学寮を卒業し、側に冬花を置くようになってから、新八は何となく姉が自分に向けていた気持ちを理解することが出来た。
 自分と景紀は主君と従者の関係であるし、冬花とは従者として先輩・後輩の間柄にある。だけれども、この二人を見ていると、年長者として何となく放っておけないものを感じてしまうのだ。
 二人の関係は主君とシキガミという形で完結しているようにも見えるが、どうにも新八としてはもどかしい思いを抱いてしまう。
 二人ともそこまで相手のことを想っているのなら、くっついてしまえと思うのだ。
 そこに宵が加わると、新八はまた別の思いを抱くようになった。北国の姫が言う、娘たちが身売りせずに済む世界。それを、見てみたいという思いを抱くようになったのだ。
 自分はあくまでも景紀の従者だという自覚はある。しかしそれとは別に、兄のような気分で彼らの行く末を見届けてみたいという思いも、確かに新八の中にあるのだ。

「まあ、貴様らの事情に、儂としては深く詮索するつもりはない」

 頼朋翁の声で、新八は回想から現実に引き戻された。

「正直なところ、結城家の内紛に儂が余計な口を挟むわけにはいかんのでな。あの小僧が帰ってきたら、その立ち回りに期待するとしよう」

「ご老公も、案外、若に入れ込んどるんやないか?」

「老人が若い連中に期待するのは当然のことだ」

 揶揄するような新八の声に、頼朋翁は平然と応じた。

「それはそれとして、今後も攘夷派を始めとする対外硬派には十分注意を払っておけ。貴様の主君のためにもな」

「ご老公らは、どこまで本気で戦争をする気なん?」

「“東亜新秩序”は、過激な国粋主義的主張を取り除けば、悪くない構想だ。アルビオン連合王国が斉への共同出兵を持ちかけているが、もし連合王国の単独出兵となった場合、連中は極東に確固たる地位を築くことになるだろう。そうなれば皇国以外の東洋勢力は駆逐され、皇国は東洋にありながら周辺を西洋勢力に囲まれて孤立する。それを防ぐためにも共同出兵に応じ、さらには華夷秩序に代わる新たな東洋の国際秩序を構築し直さねばならん。その意味では、“東亜新秩序”という構想には今後の皇国外交政策の基礎に置くべきものだろう」

「結局、戦争ってことなら、ご老公らも対外硬派と変わりないんちゃう?」

「何とでも言え」頼朋翁は冷然としていた。「すべては皇国の未来のためだ。そのためならば、批判など甘んじて受けよう」

「うちの若も、そのための駒っちゅうわけやな?」

「そうだな」あっさりと頼朋翁は新八の言葉に頷いた。「どういうわけかは知らんが、今、陽鮮の第二王子と第一王女の身柄はこちらの手の内にある。小僧の存在、そして王都・帯城の混乱と併せて、これを利用せぬ手はあるまい。後は介入の時機を見極めるだけだ」

 この老人の今の言葉を景紀が聞いたら何と返すだろうか。そんな益体もないことを新八が考えていると、廊下をばたばたと走ってくる音が聞こえた。

「ご隠居様」

 現れたのは、屋敷の家令を務める男であった。

「先ほど、外務省より緊急の知らせが届きました」

「何だ?」

「陽鮮の王宮にて政変が発生。王世子による王位の簒奪が行われた模様であります。帯城倭館では領事官職務規則に基づく海軍部隊の派遣を要請すると共に、陸戦隊の上陸に呼応して倭館を脱出。邦人を保護しつつ陸戦隊との合流を目指すもののようです」

「ついに、か」

 ここ数日、きな臭くなっていた半島情勢が一気に動いた形である。
 こちらの皇都では呑気に対外強硬論の講演会。向こうの王都では殺伐とした王位簒奪の政変。多分、若の方は苦労しているのだろうなと、新八は煙管を弄びながら思うのだった。
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