しかし、年に1度、M-1のような真剣勝負の場があることで、芸人さんたちを本筋の漫才に引き留める効果があるのではないかと思うのです。最近では、小籔千豊さんのように、ベテランが新しくコンビを組み直して挑戦することもあるみたいですね。
谷:あれは洒落で組んでいるかと思いますが、才能のある人が漫才に入ってくる効果はあるかもしれませんね。
楠木:ご著書で触れられているのはM-1の2年目までの話ですが、これからの漫才について聞きたいと思います。
M-1をきっかけに、漫才師がまたエンターテインメントの中心になったり、インターネットやYouTubeのようなものが出てきて、今はお笑いの文脈がとんでもなく濃いですよね。見ている側は素人で、業界の人間でもないのに、先輩後輩とか吉本興業の人間関係まで知っている。提供する側もそういうことが全部わかっているうえで、おもしろいコンテンツが成立している。僕はあまりテレビを見ないのでわからないのですが、ネット記事を見ると、そういう傾向があるように感じます。
それに対して、僕の古典的な芸の定義は、楽屋の裏とかと一切無関係に成立すること。事前知識がない人でもおもしろいのが本来の芸だと思うのです。時代が移るとともに芸の内容も当然変わっていくべきだとは思いますが、それにしても、あまりにも背後の文脈が濃すぎて、今後どうなるのかなと思ったりしませんか。
谷:そうですね。番組を盛り上げるために、M-1も楽屋裏は見せていますが、本当は見せてはいけない部分もあると思いますね。たとえば、芸人は努力している姿を見せない。泣いている姿を見せない。表だけを見せて笑いをとると。それが、M-1ではその裏側も見せています。1組の漫才師を全部裸にして、こんなことをやってきて、今日の決勝に出てきましたと。
楠木:それは本番のコンテンツをおもしろくする重要な仕掛けで、年1回のコンテンツではかまわないと思いますが、やはり限度がありますよね。本人がアルバイトで苦労してきたのをわかったうえで、その芸を見て、結果が出て、みんな感動するのはわかりますが、その人と同じ事務所でやってきた人が応援して、サポーターみたいに盛り上がるとなると、本当にスポーツ競技みたい。漫才はスポーツではなく芸だ、というのが僕の世代の感覚です。
僕はナイツの塙宣之さんの『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書)をおもしろく読んだのですが、漫才には距離適性があると。ナイツは競馬で言うとステイヤー、最も長距離で力を発揮するタイプで、浅草の東洋館で2時間でも3時間でもできるんだと。M-1はスプリンターで最も短距離の瞬発力で勝負するから向いてない、というようなことを書いています。
みんながこれだけM-1に注目するようになると、短距離の人ばかりになり、それが漫才師の芸の賞味期限を短くしてしまう懸念はないのでしょうか。
谷:それはありますね。M-1で決勝に残ったファイナリストが劇場で10分の高座をすると、長いネタを持っていないので、頭でつかみネタをやって、間でちょこちょこ話して、2本目をやって、かろうじて10分やっているなと。M-1前からやっている世代はできるのですが、M-1ができてから後に漫才をやりだした人間はそうかなと。
楠木:それだけ漫才は難しいものなのですね。僕はチャンピオンとかM-1の決勝に出た人がその後どうなったか、興味を持って見ているわけですが、これまでトップクラスに残った人たちが、M-1を契機に燃え尽きて、漫才ができなくなったりしませんか。