1973年、イオン交換膜製塩法以外の製法も認められることになったものの、以下の通り、厳しい生産上の制約が課せられた。
(1)国(専売公社)がメキシコやオーストラリアから輸入していた原塩(天日塩田塩)を利用すること。
(2)平釜(熱効率が悪い釜)を使うこと。
(3)専売塩(専売公社の塩)を誹謗してはならない。
(4)袋のデザインや文言の変更も専売公社の確認をとること。
こうした制約は塩に限定されず、国による規制緩和の特徴を表している。例えば、信書の送達事業の規制緩和では、“ポスト10万本”の設置が義務付けられるなど、社会の要請を無視することはできず一応の対応は行うものの、実際は高いハードルを課し、有名無実化させるというものである。
国から突き付けられた制約条件により、伯方塩業は国(専売公社)がメキシコやオーストラリアから輸入した原塩(天日塩田塩)を購入し、原料とする以外に選択肢はなかった。
こうした原塩は太陽熱や風といった自然エネルギーを利用して結晶化させており、環境にやさしい製法というメリットがある一方、“にがり”成分がほとんど含まれていないというデメリットもあった。そこで、伯方塩業は試行錯誤を経て、調達した原塩を伯方島の地下水で完全に溶かし、ろ過したきれいな濃い塩水にする工程を経て、海水の“にがり”を含む塩に仕上げるという製塩法を採用している。
このように自然エネルギーを活用した風味豊かな塩を作れるようになったものの、今度はコストが大きな問題となる。専売公社のイオン交換膜製塩法と比較し、伯方塩業の製法は熱効率が悪い平釜の使用を義務付けられたこともあって極めて高コストで、当時の小売価格において、専売塩(専売公社の塩)が1キロ70~80円に対して、伯方塩業の「伯方の塩」は270~280円と、大きな価格差が生じることとなった。当時は、こうした価格差により「伯方塩業のビジネスはうまく進捗しない」、つまり「『伯方の塩』は売れない」といった声が周囲からしきりに聞こえてくる状況であった。
当時、塩にこだわりや関心を持つ人は極めて少ない状況だった。つまり、「どの塩も同じ」と多くの人は捉えていた。こうした状況に対して、伯方塩業は塩の製法や風味の違いをしっかりと伝え、一般消費者の塩へのこだわりや関心を高めることに注力した。
具体的には、自然塩存続運動を始めた創業者たちの熱い思い、自社のこだわりの製法などを丁寧に伝えていった。例えば、料理学校の先生に「伯方の塩」を使ってもらい(お吸い物などでは塩の味の違いが際立つ)、味の良さを認めた先生から生徒へ口コミが広がっていった。
また、発売当初は価格差により、一般のスーパーなどでの拡販が難しく、自然食品や健康食品の店など、こだわりを持つ消費者が集まる場への販売促進を重視した。その後、実際に消費した人たちから「伯方の塩は高価格ながら美味しい」といった口コミが広がっていった。一般のスーパーに「伯方の塩を取り扱ってほしい」とった声を寄せる消費者も現れ、商売が軌道に乗ってきた。
さらに、転機になったのは、あまりに有名な「伯方の塩」テレビCMである。売上が順調に拡大し、創業から14年が経った1987年、テレビCMを展開することになった。しかしながら、大きな予算があったわけではなく、「とにかく安く作って」と広告代理店に依頼し、放映エリアも地元である愛媛県から始め、中国地方、関西地方など徐々に拡大していった。テレビCMの効果は絶大で、見本市や商談会などにおいて、子供が前を通る時には「は・か・た・の・しお」という歌声が聞こえ、小売や卸売業者への認知度も格段に向上した。