7日の記者会見の内容はそれを示唆する。多くの人が難しいと思っていることこそやりがいがある、というのがエーザイの組織風土といってもよい。そうした風土を醸成するのは経営トップの仕事である。エーザイは内藤氏のリーダーシップの下で大衆薬やがん治療薬の事業を強化した。足許の業績は抗がん剤の「レンビマ」、不眠症治療薬の「デエビゴ」などのブランドが成長している。それらが生み出すキャッシュフローはレカネマブの開発に大きく寄与した。
対照的に、近年の日本ではプロ経営者を登用する企業が増えてきた。例えば、武田薬品工業は外国人のプロ経営者を雇った。それによって、買収戦略、各国薬事当局との折衝、さらには国内事業の再編や資産売却など、成長戦略は強化された。アイルランドの製薬大手シャイアー買収によって武田薬品のビジネスモデルは大きく変わった。ある意味では、既存事業を変革するためには、外部から人材を呼ばなければならないという日本企業の思い込みは強いかもしれない。ただ、プロ経営者の登用が成長につながるとは限らない。
エーザイの場合、レカネマブ開発の道のりはかなり険しかった。特に、2021年にFDAから条件付きで承認を得たアルツハイマー病治療薬の「アデュヘルム」の収益見通しが立たなくなったことは大きい。その後、アデュヘルムをエーザイと共同開発したバイオジェンではCEOの交代が発表された。一方、エーザイの内藤氏はアデュヘルムの開発をストップし、経営資源を自社が主導してきたレカネマブに集中的に再配分した。その上でより低い価格を設定するなどして迅速承認を得た。経営トップのコミットメントは、成長実現に決定的インパクトを与える。
エーザイの認知症治療薬事業の成長は、日本企業の事業運営の変化の兆しに見える。1990年代初頭に資産バブルが崩壊して以降、日本では過度にリスクを回避しようとする心理が高まった。多くの企業は新しい取り組みを進めるよりも、既存事業の運営を優先した。不良債権処理の遅れもあり、経済は長期停滞に陥った。人口の減少なども加わり、経済は縮小均衡している。過去30年程度にわたって賃金は伸び悩んでいる。
その状況下、エーザイはトップのリーダーシップによってしっかりとした収益の基盤を作り、あきらめることなくアルツハイマー病治療薬を開発した。1996年に米国でエーザイは世界初のアルツハイマー型認知症治療薬である「アリセプト」の承認を得た。エーザイはWHOやビルゲイツ財団と協力し、感染症であるリンパ系フィラリア症の制圧にも取り組んでいる。これまで、インドのバイザック工場にてフィラリア症治療薬の「DEC錠」を製造し、延べ22億錠を無償で提供した。治療薬を開発・製造し、より多くの人が利用できる価格水準などを実現してよりよい健康、生き方、社会を支える、その対価として収益を得るという価値観の醸成が、エーザイの士気を高め、レカネマブの承認を支えたと考えられる。そのために金融業界出身の人材をCFOに招き、自社の生み出す社会的インパクトを可視化した。
レカネマブの承認は、世界の認知症治療の大きな一歩だ。今後、治療体制の強化に向けた取り組みも強化されなければならない。例えば、2週間ごとの投与頻度の高さ、投与できる患者絞り込みの検査コスト、新薬を用いた診断や治療を的確に行う医療体制の確立など課題は多いといわれている。レカネマブが迅速承認を得たからこそ、そうした課題解決の社会的必要性は一段と高まった。
エーザイはレカネマブを患者に一日でも早く届けたいとの見解を示している。今後、同社は国内外の製薬メーカーや、血液検査機器、画像診断処理装置などを製造する企業と連携を強化し、より良いアルツハイマー病の治療体制確立を目指すことになる。競合他社よりも効果が期待される認知症などの治療薬開発も加速されるだろう。そうした取り組みは日本企業に刺激を与え、成長に向けた機運を高める呼び水になるだろう。
(文=真壁昭夫/多摩大学特別招聘教授)