日産自動車で進行する「販売台数減少」の深刻な現実…財務の脆弱化リスク上昇

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日産自動車のHPより

 現在、日産自動車は、仏ルノーに対して出資比率の引き下げを要請していると報じられた。一時期、日産とルノーの経営統合を追求したフランス政府も、資本関係の修正に反対していない模様だ。もし、対等な資本関係が実現すれば、日産はこれまで以上に自社の状況に合わせた事業運営を立案し、実行しやすくなるだろう。

 1990年代初頭にわが国では資産バブルが崩壊した。その後、日産の経営体力は急速に低下した。日産はルノーに救済を求めた。1999年10月からはカルロス・ゴーンの指揮によって「日産リバイバルプラン」が実行された。主たる内容はリストラによるコストカットだった。新興国市場のシェア拡大戦略も実行された。

 しかし、結果的に、日産は新しい発想の実現を加速することが難しくなった。その状況は長引いた。ゴーン逮捕による企業イメージ低下、長引く車載用半導体の不足もあり、業績は不安定に推移している。ルノーの出資比率引き下げが実現した場合、日産の意思決定の自由度は高まるだろう。それを起爆剤に経営陣は他企業との連携をさらに強化し、社内の創意工夫がより大きく発揮される環境を整備しなければならない。既存の事業運営体制の見直しなど、痛みを伴う改革が必要になる可能性も高い。日産経営陣の覚悟が問われようとしている。

稼ぎ頭の不在が長引く日産

 1990年代以降、日産はライバルメーカーにはない新しい自動車を生み出してグローバルにシェアを高め、成長を加速させることが難しい状況が続いた。資産バブル崩壊後、国内経済は急速に悪化し、自動車需要は落ち込んだ。日産は収益力と財務体力の低下に直面した。1991年に6.6%だった日産のグローバルシェアは、1998年には4.9%に低下した。1992年度以降は最終損益が赤字に陥ることが増え、有利子負債が一段と増加した。日産は自力での事業運営体制の立て直しが困難になり、ルノーに救済を求めた。

 1999年5月にルノーは日産に出資を行い、その後はカルロス・ゴーンの指揮によるリバイバルプランが進んだ。その中核的な取り組みはコストカットだった。2001年には、主力の村山工場や日産車体京都工場が閉鎖された。翌年には、久里浜工場などが閉鎖された。新卒一括採用、終身雇用、年功序列の雇用慣行が長く続き、その維持が当たり前になってきた日本の経営者にとって、コストカットのために雇用を大幅に削減することへの抵抗感は非常に強かった。その風潮は今なお続いている。言い換えれば、わが国の商慣習になじんでいない(しがらみのない)海外出身の経営トップだったからこそ、大胆なコストカットが実行できた。それは、日産の財務体力を立て直すために必要だった。また、日産とルノーが車体(プラットフォーム)を共有したことは、日産のグローバル戦略の加速につながり、事業運営の効率性を高めることに寄与した部分はあるだろう。

 しかし、世界をあっと驚かせるような自動車を生み出し収益の柱を確立することは難しかった。特に、新モデル開発の加速が難しかった。むしろ、日産自動車ルノーとの利害調整にエネルギーを割かなければならなかった。2014年にはフランス政府がフロランジュ法を制定し、日産とルノーの経営統合を目指し始めた。ゴーンが日産・ルノー・三菱自動車のトップを兼務した背景には、雇用を中心に自動車産業の強化を目指す仏政府の意図が強く影響したと考えられる。

さらなる収益の不安定化懸念

 しかし、金融商品取引法違反によるゴーン逮捕によって日産の混乱は深まった。その結果、日産の業績はかなり不安定だ。ゴーン逮捕の後、日産の企業イメージは悪化した。事業運営体制の立て直し戦略の立案と実施も難しくなり、日産の収益力は低下した。特に、ゴーンが逮捕された2018年11月は、中国経済の減速が一段と鮮明化し、新興国経済の先行き懸念が高まりやすかった。