戦前生まれの森英恵と三宅一生、裸一貫から世界ファッション界に革命を起こした偉業

 68年にパリで起こった社会運動「五月革命」を体験し、それまで学んでいたオートクチュールではなく、より多くの人に届ける服作りを目指す転機となった。69年にニューヨークにプレタポルテを学ぶ。

 70年に帰国し、三宅デザイン事務所を設立し翌年、イッセイ ミヤケを立ちあげる。同年開催されたアジア初の万国博覧会の未来的なコンパニオンユニフォームデザインも話題となる。翌71年にニューヨークにて初めての海外コレクションを発表。73年のパリ・ファッション・ウィークに外国人として初参加。学びと挑戦の限りない連続である。

 パリ・コレクションに初参加した際から“一枚の布”というコンセプトのもと、生地産地や生産企業とのコラボレーションにより、一本の糸から研究開発を行い、独自素材や技術でもの作りを継続。93年にはオリジナル素材を活かした「プリーツ プリーズ(PLEATS PLEASE)」を、98年には「エイポック(A-POC)」を発表。日本の伝統技術をベースに最新の開発技術を融合させたもの作りは、他の追随を許さず国内外のファッション界に大きな影響を与え続けた。また、既成概念にとらわれず自由な発想で人を育てながら個々のプロジェクト(デザイン)に取り組む姿勢から、数多くの著名なデザイナーを輩出したことでも知られる。

 ちなみに、このプリーツ プリーズは「行動する女性」をコンセプトとして、コンパクトに収納でき軽くて動きやすく、着心地が抜群で、着る人の体型を選ばないようデザインされ、世界中で400万着以上の販売実績を持つ。また、プリーツ プリーズのバックのラインナップから生まれたのが、今も世界中に多くのファンを持つバッグ「バオ バオ(BAO BAO)」である。

 99年にイッセイ ミヤケのデザイナーは退いたが、その後も革新的な仕事を追求し、2007年には社内に「Reality Lab.」を立ち上げるなど、21世紀の課題に応える衣服デザインを最後まで探りつづけた。16年には国立新美術館で「MIYAKE ISSEY 展:三宅一生の仕事」を開催。

まとめ

 尊敬するお二人の顧客名簿には、世界中のセレブリティの名前が数多く並ぶ。また、受勲歴においても誰もが知る華麗な名誉勲章が並ぶ。しかし、それらは結果でしかない。お二人が挑戦した時代は、外貨不足、人種差別、商業習慣などの現在では想像もつかないほど厚い壁が存在していた。それにもかかわらず、偉大なる実績を残した。当時から比べればはるかに恵まれた環境にいる私たちファッションビジネス業界は、三宅氏と森氏の逝去に接し、再度、初心をみつめ直すべきではないだろうか。

(文=たかぎこういち/タカギ&アソシエイツ代表、東京モード学園講師)

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