戦前生まれの森英恵と三宅一生、裸一貫から世界ファッション界に革命を起こした偉業

森英恵氏(ハナエモリのHPより)
森英恵氏(ハナエモリのHPより)

 8月5日、2つの悲報がファッションビジネス業界を走り抜けた。国際的ファッションデザイナーの三宅一生氏が84歳でがんのため逝去。続いて同月11日、同じく国際的ファッションデザイナーの森英恵氏が老衰のため96歳にて逝去。たった数日の間に大きな悲しみが何重にも業界全体を覆った。お二人は経歴、商品テイスト、ビジネスモデルなどの違いはあっても、日本のファッション界のグローバル化のフロンティアであり、ビジネスにおいても大きな成功を手中に収めた。森氏は経営上の挫折を乗り越え、その存在感を輝かせた。本稿では、お二人の前人未到の足跡を追いながら、心よりご冥福をお祈りしたい。

1.森英恵、初めてづくしの日本人デザイナー

 1926年(大正15年)に島根県六日市町(現吉賀町)で裕福な開業医の家庭に生まれる。戦後間もない47年に東京女子大学を卒業。51年に新宿のビルの2階にスタジオ「ひよしや」を設立。当時珍しかったウィンドウでマネキンが着る服が大評判を呼ぶ。そこから日本映画全盛期に映画衣裳デザインの依頼が舞い込み、『狂った果実』(56年)や『太陽の季節』(同)をはじめ数百本もの映画の衣装を担当した。夫の森賢氏が社長として経営全般を、英恵氏がデザインをみる黄金コンビが誕生する。

 

 

 61年初頭にパリを訪れシャネルの哲学に感銘を受けた。同年夏にニューヨークで「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を観て日本人女性が惨めに描かれている現実や素晴らしい日本文化が誤って認識されていることなどに激怒し、「世界に日本文化を認めさせてやる」という使命を認識。森氏のデザインでは蝶々が代表的なモチーフになった要因のひとつといわれている。

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 注文服が常識だった63年からプレタポルテ(高級既製服)に本格的に進出。65年にニューヨークで初の海外コレクションを発表し、日本の伝統と西洋のファッションを見事に融合させた独自のスタイルが「EAST MEETS WEST(東と西の融合)」と称賛された。定期的にショーを続けることで有名高級百貨店「バーグドルフ・グッドマン」のウィンドウを飾りその地位を不動のものとする。

 77年にはパリのディオール本社があるアベニュー・モンテーニュに初のハナエモリのメゾンをオープン。当時、厳しい入会条件があり閉鎖的なパリのオートクチュール組合に属する唯一の東洋人として、より国際的な活動に取り組み、27年間もパリでコレクション発表を続けた。国境を越えた「美の大使」として高く評価され、通信手段がアナログな時代に現地の最新ファッション情報を日本に届ける業務にも積極的に取り組んだ。2004年のコレクション発表を最後に第一線からは退き、衣裳展の開催や若手の育成など「手で創る」をテーマに活動を続けていた。

 02年5月、ハナエモリは負債101億円を抱え民事再生法を申請した。1996年に社長の森賢氏が死去し最盛期400億円を誇った売上は87億円まで落ち込んでいた。その後、三井物産が商標権を買い取りハナエモリ・アソシエイツを設立し事業は継続されている。

 彼女特有のエレガントなテイストは後継のデザイナーにも脈々と受け継がれている。水戸芸術館開館30周年記念事業として20年に「森英恵 世界にはばたく蝶」展が開催された。

2.イッセイ ミヤケ革新の継続

 三宅一生氏は1938年(昭和13年)広島市生まれ。45年に7歳で被爆し、母親は3年もせずに亡くなる。広島平和記念公園の日系アメリカ人のイサム・ノグチのオブジェから、デザインが人を励ます力に目覚め、その後の人生に大きな影響を受けた。多摩美術大学に進み在学中に新人デザイナーの登竜門「装苑賞」に2年連続で入賞を果たす。卒業後、63年に第1回コレクション「布と石の詩」を発表するが結果を出せず、65年に渡仏。パリで服作りを学び、当時人気だった「ギ・ラロッシュ」「ユベール・ド・ジバンシィ」で修業を積む。