康次郎は、「自分が得たものをすべて義明に引き継がせれば、義明がたとい20歳でも自分と同じになれる」と考え、幼い頃から義明を現場にともない帝王学を叩き込んだ。
康次郎は「オレが死んだら、10年間は動くな。10年経ったら、お前の考えでやれ」と義明に言い残した。義明はこの遺言を忠実に守り、ひたすら堅実経営で西武鉄道グループを率いた。一方、次男の堤清二は独創的な経営で西武百貨店を一流デパートに押し上げ、西武セゾン・グループを創り上げる。
堤清二は東京大学経済学部に進んだが、学生運動に身を投じ、父が大物政財界人であったことからスパイ容疑で除名され、肺結核で闘病生活を送る。完治した後、父の議員秘書を経て西武百貨店に入社、1961(昭和36)年に34歳で社長となった。また、辻井喬(つじい・たかし)という名の詩人・小説家としても活躍し、詩集『異邦人』では室生犀星賞を獲得し、堤家の複雑な家庭環境をモデルにした小説『彷徨の季節の中で』を発表している。
清二が入社した当時、西武百貨店はまだ地方の名もないデパートに過ぎず、西武鉄道からの天下りが上層部を占拠し、業績も悪く、従業員のモラルも低かった。
しかし、康次郎の死後、清二は積極的に事業展開を進める。スーパーマーケットの時代が来ると予見し、傘下の西友ストアー(現 西友)の店舗数を倍増。渋谷に西武百貨店を出店。以後も大宮店、静岡店、宇都宮店、浜松店……と積極的な出店を続けた。また、株式会社パルコを設立(パルコとは公園の意味である)。前衛的・奇抜なテレビコマーシャルは脚光を浴びた。1984(昭和59)年、西武百貨店は念願の銀座有楽町に出店し、一流百貨店の仲間入りを果たした。その翌年、清二は「西武流通グループ」を「セゾン・グループ」と改称した(セゾンとはフランス語で「季節」の意味)。
しかし、大胆な拡大戦略を展開するセゾン・グループをバブル崩壊が襲う。
系列の不動産・金融会社が抱える莫大な負債に悩まされ、1991(平成3)年に堤清二はついにセゾン・グループ代表からの引退を余儀なくされた。2003(平成15)年に西武百貨店も第一勧業銀行(現 みずほ銀行)の管理下で私的整理に追い込まれ、西友・パルコなど主たる事業を切り売りせざるを得なくなる。
そして、同じく2003年に経営破綻した大手百貨店そごうと、持株会社ミレニアムリテイリングを設立して経営統合したが、再生計画は軌道に乗らず、2006(平成18)年セブン&アイ・ホールディングス(セブン-イレブン・ジャパンとイトーヨーカ堂の共同持株会社)に買収されてしまう。そして、2009(平成21)年にそごうがミレニアムリテイリング、西武百貨店を吸収合併して「そごう・西武」が設立されたが、今般、セブン&アイ・ホールディングスから売却されてしまうのだ。
一方の西武鉄道グループである。
同社は「日本の土地神話」を代表するような企業で、その所有不動産の資産価値は、1980年代半ばで12兆円に達すると試算されている。当時、東急グループの不動産総額がおおよそ1兆円弱、三菱地所が1兆円強、三井不動産が2000億円ほどだったというから、桁が違う資産を所有していた。