1941(昭和16)年3月に石原は現役を退いて、予備役へ編入されることとなった。この先、日本軍は泥沼となった日中戦争に加えて、太平洋戦争にも突入することとなる。
軍を去った石原は、執筆活動、講演活動に力を入れ、立命館大学国防学研究所長に就任したが、軍部からの干渉により辞任している。太平洋戦争に対しては終始反対の態度を示し、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可であると主張したが、受け入れられることはなかった。
石原は「最終戦争論」を唱え、武器の発達によって戦争という事態が絶滅し、恒久平和がもたらされると主張した。戦後の極東国際軍事裁判においては、戦犯の指名から外れたが、証人として山形県酒田の出張法廷に出廷した。
ここで彼は、「日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露するとともに、東條英機を無能であったと厳しく批判した。
その後の石原は政治や軍事に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて仲間とともに共同生活を送り、1949(昭和24)年に没している。
東條英機の副官を務めた西浦進は、「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている」と批判している。しかし一方で、石原はカリスマ性を持つ魅力的な人物でもあり、多くの信奉者が存在したことも事実である。
石原莞爾は軍人としてだけではなく、思想家としても多くの人を引き付ける魅力を持っていたが、同時に破天荒なキャラクターの持ち主だった。彼は子ども時代から天才肌の能力を持っていたにもかかわらず、あばれ者でいたずら好きのかんしゃく持ちであったし、生活面では無頓着でだらしなかった。
長じて軍の主要なポストについてからも、組織のロジックに盲目的には従おうとせず、上官に対しても自己主張を繰り返した。このように何事にも物怖じしない態度は、幕末に活躍した小栗上野介を思い起こさせる(『精神科医が分析する小栗上野介=ADHD説…有能にして傲慢、生涯に70回余の降格・罷免』)。小栗は幕閣のなかでもっとも有能な官吏であったが、周囲に忖度しない言動により、罷免と任用を繰り返された。
また私生活において身なり風体へのこだわりがなく、金銭の蕩尽もみられる点を考えると、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎に通じるように思われる(『精神科医が語る葛飾北斎のADHD…生涯93回の転居、頻繁な改名、無礼で金銭には無頓着』)。石原に明らかな不注意症状は認められないが、その特性はADHDに近いものが存在していたと考えられる。もし石原が軍部の実権を握っていたのであれば、日中戦争の様相は様変わりをし、太平洋戦争も防げていたのかもしれない。
(文=岩波 明/精神科医)
●岩波 明(いわなみ・あきら)
1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。