さらに石原はいたずらもので、無頓着で無精であり、事件をひんぱんに起こした。なかなか風呂に入らないため、体中がシラミだらけとなった。そのシラミを集めては紙の上に並べて競争させたりもした。
図画の宿題に、自分の性器を描いて提出したときには大きな問題となった。美術の教師が嫌いだった石原は、「便所において我が宝を写す」と題をつけて提出したのである。このため「品行下劣、上官抵抗」という理由で退学になりそうになったが、学校長の裁量のおかげで放校にはならないで済んだ。
このように石原は奇行が目立つことが多かったため、「もしかしたらあいつは、七番の部の病気(精神疾患)ではないか」と同級生から噂されたという。
もっとも、石原はおうようで小事にこだわらない性質で冗談もうまかったので、周囲の人気は高かった。ただ服装や身の回りに気を使うことがなかったため、上官からはよく注意をされていた。
明治40(1907)年、石原は陸軍士官学校に入学した。あいわからず上官への反抗や侮辱などを繰り返すなど、以前と同様に生活態度は悪かった。剣道の試合で、教官と組打ちになり、相手の急所をにぎって気を失わせたこともあった。
陸軍士官学校を卒業した後は、山形をへて会津若松の部隊に赴任になる。ここで石原は料亭でよく遊ぶようになり、給料のほとんどを使い尽くした。給料日には借金とりが押し寄せてくるので、当座の小遣いだけ抜いて、あとは早いものがちにと給料袋のまま渡していたという。
軍隊時代の石原は末端の兵士のことをよく考える士官で、行動は合理的であった。石原が京都第16師団長のときのことである。陸軍記念日には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典を行うのが通例であったが、石原は指揮官1人とともに各部隊の前面を馬を駆け足で走らせて閲兵を済ませ、式典を5分程で終えてしまったという。
一方で上官に対しては、自分の意見を大声で直言した。二・二六事件のときには、上官である荒木貞夫に対し石原は「ばか! お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけたことが知られている。
また一方で石原は非常に勉強熱心であり、毎朝5時に起床して、過去の戦史などを研究し、マルクス主義など当時の新しいテーマを扱った本も熱心に読んだという。
1932(昭和7)年3月、国際連盟からリットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣され、満州国に関しての現地調査を行われた。1933(昭和8)年2月、リットン調査団の報告書をもとに、満州国の存続を認めないという勧告が国際連盟から提出された。このため同年8月、日本は国際連盟を脱退した。
1937(昭和12)年の日中戦争開始時、石原は参謀本部第一部長であったが、強硬路線を主張する部下を抑えきれず、早期和平の方針で参謀本部をまとめることはできなかった。
石原は同年9月に関東軍参謀副長に任命されて着任したが、参謀長の東條英機との路線対立が深まり、最終的には1938(昭和13)年には参謀副長を罷免されている。石原の東條への侮蔑は徹底したもので、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒、東條を無能呼ばわりしたため、修復不可能な仲となっていたという。