本連載の9月掲載記事『ナイキ・ダンク「The 50」“見事な販売手法”を分析…アパレル販売の新常識&生き残り策』でご紹介したデザイナーのヴァージル・アブロー氏が11月28日、心臓血管肉腫による2年間の闘病生活の末に急逝した。享年41であった。
ヴァージル氏は2019年9月に体調がすぐれずにオフホワイトのコレクション発表時に欠席したことはあったが、その際は多忙のため医師から休養が必要と指摘されたと発表。闘病生活中であることは公表していなかった。
彼は、デザイナーとして自身が創業したラグジュアリー・ストリートブランド「オフホワイト c/o ヴァージル アブロー(OFF-WHITE c/o VIRGIL ABLOH)」と世界最大メゾンのひとつルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)のメンズ・アーティスティック・デザイナーも務めていた。親日家でもあり、学生時代に感銘を受けた現代美術家の村上隆との交流を通じて、DJ活動やアーティスト活動も高い評価を得ていた。今シーズンもルイ・ヴィトンと古い友人であるニゴ(NIGO)とのコラボも大きな話題になった。
そのファッション界のトップオブトップの急逝に業界中から深い悲しみと死を惜しむ声が上がっている。今回は緊急寄稿として、天才ヴァージル・アブローの短すぎる41年間の多大なる影響と足跡を再検証してみたい。
彼の人格を語るエピソードに、LVMHグループが世界の新人デザイナーの登竜門として開設した「LVMHプライズ」選考時の逸話がある。LVMHプライズは優勝賞金が30,000ユーロ(約3,800万円)と飛び抜けて高額な上、優勝者はLVMHグループのエキスパートから1年間のメンターサービスを通して、ファッションビジネスのノウハウを習得できる。2018年にはアジア出身者として初めて日本人デザイナー、井野将之氏(DOUBLET)がウィナーとなったのも大きな話題となった。この最終選考には毎年7、8人が残りウィナーと特別賞が授与される。審査委員となったヴァージル氏は、受賞できなかった最終ファイナリスト全員に「僕自身も挑戦したが受賞できなかったんだ」と慰めと励ましの言葉を語りかけている。ヴァージル氏の人となりが充分に理解できる。
1980年、ガーナからの移民のお針子の母とペンキ工場の責任者の父のもと、米国イリノイ州で生まれる。10代で音楽を通して芸術的感性を表現し始め、DJとしての地位を確立。ウィスコンシン大学マディソン校で土木工学の学位を取得後、イリノイ工科大学で建築学修士号を取得。洋服も建築も、背景を踏まえてデザインする点では同じと発言している。大学時代に知り合ったラッパーのカニエ・ウェストと共に、2006年フェンディでインターンとしての経験を持つ。
そこで彼らは、当時のフェンディCEOで現在はルイ・ヴィトンの代表取締役会長兼CEOであるマイケル・バーク氏に出会った。その後「カニエ・ウェスト」ブランドのクリエイティブ・ディレクターに就任。14年にミラノを拠点としてオフホワイトのデビューを飾る。オフホワイトは、ナイキやイケアとのコラボレーションで大きな成功を納め、その評価を大いに高めた。カジュアルアイテムにすぎなかったスニーカーのリメイクなどの手法で一大ブームを創る。
ヴァージル氏はこのブランドを通じて業界の内外から注目を集め、Instagramのアカウントには1060万人以上のフォロワーがいる。18年にルイ・ヴィトンのメンズ部門のアーティスティック・ディレクターに就任。1854年創業の世界最大メゾンであるルイ・ヴィトン初の黒人デザイナーとしても注目を集めた。