話は戻りますが、「ベートーヴェンは、辛酸をなめるような生活のなかでも、不屈の精神で数々の名作を作曲した作曲家である」と、皆さんも学生時代に音楽教師から言われたことがあるでしょうか。実際にベートーヴェンは、弟たちに対する援助や、後見人になった甥カールの素行のために、それなりに苦労したことは事実です。そのうえ、一生涯独身を貫いたベートーヴェンは、その孤独からなのか、甥に対する愛情は過度な教育熱心さとなって現れました。その結果、カールは精神的に不安定になり、非行に走るだけでなく、何度も自殺未遂を起こしてしまうのです。
裁判を起こしてまで、実母からカールの親権を奪ったベートーヴェンですが、以前に本連載記事『貧困イメージの強いベートーヴェン、実は莫大な遺産を残していた』でも書いたとおり、質素な生涯と思いきや、実はしっかり資産を貯め込んでいました。亡くなった際の遺産は、なんとオーストリアの高額遺産額ランキング上位5%に入るくらい巨額でした。
他方、『春の祭典』を作曲して大スターになったストラヴィンスキーの場合は、アメリカに移住した当初は、本当にお金に困ったようです。
ストラヴィンスキーは、ロシアで育ち、フランスで名声を築き上げた20世紀を代表する作曲家です。ナチス台頭の影響もあり第二次世界大戦開戦直後の1939年、米ハーバード大学の依頼によって、音楽に関する講義を6回行ったのち、そのままアメリカに移住にしてしまいます。
アメリカでも、これまでに作曲した曲の著作権で悠々と生活できると思いきや、思いがけない大きな壁にぶつかってしまいます。当時のアメリカでは、ストラヴィンスキーは亡命ロシア人として扱われて著作権を受け取れなかったのです。そこで、これまでにヨーロッパで作曲したヒット曲を少し変えて新曲として出版したり、ストラヴィンスキーの七転八倒が始まるわけです。
「レストランでは、現金で支払わずに、必ず小切手に署名をして切る。僕の署名が入った小切手ということでレストランは大切に所有するので、銀行に持っていって換金されることはないからね」と、ストラヴィンスキーが冗談か本気なのか語ったというエピソードは、今もなお、アメリカの音楽家の中に残っています。
そんな苦労をしたストラヴィンスキーですが、残された遺族は状況がまったく違います。今もなお大人気のストラヴィンスキー作品の著作権が切れるのは2041年。それまでは印税がどんどん入ってくるため、たとえば超高級レストランに行っても、涼しい顔でクレジットカードの一回払いで支払ってしまうに違いありません。
(文=篠崎靖男/指揮者)
●篠﨑靖男
桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。
2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。
2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。
国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。
現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。エガミ・アートオフィス所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/