東京に移住したことで、皇居への距離が心理的にも近くなった。まず、母方の親戚である有栖川宮家との親交が深まり、翌1898年3月に慶喜は明治天皇・皇后に拝謁。酒宴に及んだ。
一説には、慶喜が帰った後、明治天皇が伊藤博文に「伊藤、俺も今日でやっと今までの罪ほろぼしができたよ。慶喜の天下をとってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮き世のことで仕方がないと言って帰った」と語ったと伝えられる。
拝謁実現には勝海舟が尽力し、勝はその翌年に死去した。
巣鴨邸の前に日本鉄道の豊島線(現・JR東日本の山手線)が敷かれることになり、喧噪を恐れた慶喜は1901年12月に東京市小石川区小日向(こひなた)第六天町(現在の東京都文京区春日)に移住した。慶喜は新しもの好きで、水道・ガス・電気をかなり早い時期に引き、自ら考案した水洗トイレを使っていたという。
孫の榊原喜佐子(さかきばら・きさこ/旧姓・徳川)によると、「第六天で一番大切なお祝い日は、御授爵記念日である。祖父慶喜公は明治三十五年六月三日に侯爵を授与され、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を創立された。この日を祈念して毎年『御授爵の宴』が開かれたのだ」(榊原喜佐子著『徳川慶喜家の子ども部屋』[角川文庫])という。
この逸話が示す通り、慶喜は1902年6月に公爵に列し、名誉復帰したことを何よりも喜んでいた。明治天皇も「よかった。よかった」と安堵の声を側近に漏らしたという。
勝海舟死去の後、公爵授与に尽力したのは渋沢栄一だという。持つべき者はよき家臣である。そして、渋沢が慶喜の汚名を雪(そそ)ぐべく企図していた『徳川慶喜公伝』の編纂にも協力するようになった。渋沢らが慶喜を囲んでヒヤリングする場が、大河ドラマでも描かれるのかもしれない。
1913年11月、慶喜は風邪をこじらせ、肺炎で死去した。享年77歳(満年齢では76歳)。
「将軍職を返上した自分は、徳川家代々の菩提寺寛永寺墓地には入らぬ、この家は今後仏式をやめて神式とする。自分の墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものとする」(『徳川慶喜家の子ども部屋』)と遺命。谷中墓地に葬られた。
朝敵となって謹慎になった後、慶喜にはやることがなかった(維新後の慶喜の一番の仕事は子作りだったという皮肉もあるが)。
そして、政治的には新政府の不満分子に担がれる危険性がたぶんにあった。そこで、趣味に没頭して世俗を離れ、政治にかかわらない姿勢を誇示することが重要だった。慶喜は旧幕臣の実業家・渋沢栄一には会見することがあっても、維新後も役人を続けた永井尚志(なおゆき/演:中村靖日)との会見は断っていた(永井家には、寂しいものを感じたと漏らした尚志の言葉が伝えられているという/家近良樹著『その後の慶喜――大正まで生きた将軍』[ちくま文庫]より)。
ちなみに、東京市長に推された慶喜が「ナニ、ワシに江戸の町奉行になれと申すか?」と答えたという面白い話が伝わっているが、これは家達を東京市長に推すという噂があり、そこから派生したウソのようだ。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。