最後の将軍・徳川慶喜の“余生”…狩猟と写真に没頭、渋沢栄一に支えられ明治天皇と酒宴

 慶喜はもともと体を動かすことが好きなアウトドア派だったのだが、長い謹慎生活で自重を余儀なくされた。しかし、従四位に復帰すると自由に外出し、趣味を謳歌しはじめる。

 なかでも好きだったのが、西洋銃を使った狩猟だった。慶喜はなんでも徹底的にきわめる性格で、狩猟場は近村から遠方にまで及び、日が落ちるまで帰宅しなかったという。1881年に再度の留学を終えた異母弟・徳川昭武(あきたけ/演:板垣李光人)が帰国し、翌1882年に慶喜邸を訪れると、2人は意気投合して安倍川や金谷に狩猟に出かけた。

 また、慶喜は皇太子時代の大正天皇と親しく、ともに狩猟を楽しんだ。大正天皇は慶喜の持つ西洋銃をお気に召して「是非、譲ってくれ」と所望されたのだが、慶喜のお気に入りだったため、どこかで似たものを購入して献上したという。慶喜が「剛情」といわれるゆえんである。

徳川慶喜、弟・昭武の影響で写真撮影に没頭す…静岡の風光明媚な場所をレンズに

 狩猟は元気なうちは続けていた趣味であるが、それ以外の趣味はある程度のレベルまで行くとやめてしまい、次の趣味を探すことが多かったようだ。そのこともあって、慶喜の趣味は、狩猟、鷹狩り、囲碁、投網(とあみ)、鵜飼い、謡(うたい)、能、小鼓(こつづみ)、洋画、刺繍、将棋などなどと幅広い。

 狩猟以外で有名な趣味に、写真撮影がある。

 弟・昭武の影響で1893年頃から写真撮影にのめり込み、「写真に関しては、夜を徹することもしばしばで、にわかに上達し、静岡の風光明媚なところはおおむね(慶喜)公のレンズにおさめられた。人物の撮影も深く究められ、公の手で作られた写真は、同族にわけあたえられたものも少なくない」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』[平凡社]より)。慶喜の曾孫・徳川慶朝(よしとも)はカメラマンで、実家の押し入れに眠っていた慶喜撮影による大量の写真を発見し、『将軍が撮った明治 徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社)として出版している。

 また、投網とは、海や川に漁網を投げ入れて魚を獲る漁法である。投網の時、慶喜は人力車を使って体力を温存したうえで漁場に行くほど徹底していた。慶喜の子どもたちも父に似て器用だったが、末男の精(くわし)は投網がうまく、それを見た漁師から「ウチの養子に来てほしい」と言われるほどの腕前だった。しかし、精は漁師のウチの養子に行くことなく、勝海舟の家に婿養子となった。

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感動的だった、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の慶喜と美賀君の再会シーン。美賀君の溢れ出る包容力にネットでは感動の声が続々! でもそれもそのはず、本当は美賀君は2歳年上の姉さん女房なのです。……見えないですね。(画像は同番組公式Instagramより)

徳川慶喜、60歳…美賀君亡き後、東京に移住す…勝海舟の尽力で明治天皇と酒盛り

 先述した通り、慶喜は美賀君を呼び寄せて生活をともにしていた。美賀君は釣りが好きだったらしく、慶喜とともに清水湊(現在の静岡県静岡市清水区)を数度訪れるなど、仲睦まじく暮らしていた。ところが、1891年に美賀君に乳ガンが発見され、高松凌雲(演:細田善彦)らが手術を行った。容態は好転せず、1894年5月に美賀君は東京に移って治療を続けたが、同年7月に死去した。享年60歳(満年齢では59歳)。大河で演じる川栄李奈(1995年生まれ)は草彅剛(1974年生まれ)より21歳年下で、夫婦というより娘みたいなものなのだが、実際は美賀君のほうが2歳年上だったのだ。

 晩年の美賀君が東京で治療を続けたことが念頭にあったのだろうか、慶喜は1897年に満60歳となり、11月に東京・巣鴨に移住する。