「『どうせ、わかってもらえない』と決めつけて、初対面の人に、聞こえない、ということも言えませんでした。でも、わかってもらえなくてもいい。まずは筆談で『聞こえません』と伝えていこうと思いました。そんなことさえも一歩踏み出すには、当時の私には大変な勇気がいったのです」(岡部さん)
ろう者の大学進学も大変です。ITを学びたいと思った岡部さんに門戸を開いたのは、国立筑波技術大学産業技術学部です。この大学は2005年に茨城県つくば市に設立された日本初の視覚障がい者と聴覚障がい者を入学条件にした国立大学法人です。残念なことに、他大学は、ろう者がITを学ぶ環境が整わず、唯一、聴こえない人を受け入れてくれる大学でした。
入学早々、08年6月に開催された「第5回日本聴覚障害者陸上競技選手権大会」で男子200mに出場し、2位に入賞、早くも頭角を現します。11年の第8回大会においても、400m優勝、4×400mリレー優勝を果たし、卒業後の2014年に開催された「第14回全国障害者スポーツ大会」では、100 mと200 mの2冠を達成し、国内の大会で次々に好成績を残します。“東北の岡部”は、“日本の岡部”へとステップアップを果たしました。
大学卒業後は、学んだことを活かせる大手電機メーカーに就職をしましたが、これには切実な問題がありました。
「ろう者には、聴者に劣らぬスポーツの才能がある人も大勢います。しかし、あまり知られていませんが、ろう者がスポーツを続けるための支援制度は、国をはじめ行政などにはありません。海外遠征でも、関連費用も含め、全額自己負担で参加するしかないのです。
私の両親が負担した費用の累積額は、新築の一軒家を建てられる費用に匹敵すると思います。両親には申し訳なく思っていますが、『祐介のお陰でいろんなところに行ける』と言ってくれるのです。
経済的なことから断念する人を何人もみてきました。素晴らしい才能を持つ次世代の選手も大勢います。才能の芽を摘むことのないように、一人でも多くの方にアスリートろう者のことを知っていただき、応援していただければと願っています」
会社員を続ける傍ら、横浜市スポーツ医科学センターで「特定スポーツ支援選手」に選出される生活が始まりました。同センターでは指導員や職員、管理栄養士がチームを組んで、岡部さんの体力測定を行い、走るフォーム、栄養状態などを徹底的に科学分析しました。
こうした甲斐があって、ついに“日本の岡部”が“世界の岡部”となる日がきました。13年、カナダで「トロント世界ろう陸上競技選手権」の4×400mリレーの日本代表に選ばれ、日本史上初の銅メダルに輝きました。
さらに快進撃は続きます。15年には、「第 8 回アジア太平洋ろう者競技大会」で金メダルを受賞し、ついに世界の頂点に立ったのです。16年にブルガリアで開催された「世界ろう者陸上競技選手権」でも、日本史上初の銀メダルに輝きました。
また、13年の記録が評価され、デフリンピックの日本代表に選ばれます。デフリンピックとは、4年に1度開催される、ろう者のオリンピックです。岡部さんが初出場した13年はブルガリアで開催され、70カ国2879人が出場、400メートルでは準決勝に進出し、4×400mのリレーは6位になりました。17年に臨んだトルコで開催されたデフリンピックでは(世界100か国、3148人の選手が参加)、4×400mリレーで5位に入賞を果たしたのです。
来年22年5月1日~15日にブラジルで開催される予定のデフリンピックでも、岡部さんは連続3回目の出場を目指しています。