1964年10月に開催された東京五輪で、約10万人が約6800キロをつないだ聖火の最終ランナーは、広島県出身の坂井義則さん(故人)だった。「敗戦から立ち直った日本」を原爆の落ちた広島県出身の彼に象徴させていた。10月10日の開会式、国立競技場の階段を駆け上がった坂井さんが聖火台にトーチを傾けて着火した瞬間を覚えている年配者は多いはず。だが、この瞬間を複雑な思いで見つめていた人たちがいた。
上塚勝さん(75)は「坂井さんが国立競技場の階段を上る姿を鮮明に覚えていますよ。高度経済成長で、新幹線が走るなど日本に活気があった時代ですね。でもちょっと複雑な気持ちでした」と振り返る。
実は57年前は甲南高校(兵庫県芦屋市)の3年生、バスケットボール部で活躍していた上勝さんは、晴れの聖火ランナーに選ばれていたのだ。聖火リレーは兵庫県庁から大阪府庁までの約40キロが29区間に分けられ、芦屋市内を走るメンバーのひとりだった。走るのは9月25日。ところが、あまりにも運が悪かった。前日に台風20号が西日本に迫っていた。「25日も近畿地方が直撃される」との予報で、阪神間の聖火リレーの中止が決まってしまう。
「集団の先頭でトーチを持って走るはずでした。練習を繰り返して本番当日を心待ちにしていました。しかし前の晩に、台風で聖火リレーは中止になった、と電話連絡が入ったのです」(上塚さん)
ところが皮肉にも台風20号は予想外に早く去っていった。聖火リレーが始まるはずの午前9時頃には阪神間は「台風一過」の快晴になった。「これなら走れるのとちゃうか」と期待した。しかし中止決定は変わらず、聖火は自動車で大阪府庁に運ばれてしまう。「悔しかったですね。呆然としていました」
同じく臍を噛んだのが、大阪府池田市に住む森純也さん(74)。当時、甲陽学院高校(西宮市)の3年生、陸上部の副主将で西宮市内を走る予定だった。「日の丸を背負って走る誇らしさに胸を弾ませ1カ月以上前から練習を重ねていました。秋晴れなのにどうして走らせてくれないのかと諦めきれず予定コースにやってきて、聖火が車で運ばれていく様子を空しく見つめていた」と振り返る。
十代で経験した「無念」から半世紀余、「幻の聖火ランナー」たちは華やかなオリンピックのニュースに触れるたびに心の片隅で何か引っかかるものを感じてきた。長く忘れかけていた上塚さんも阪神・淡路大震災で家を建て替えた時、しまってあったトーチが出てきて、再び聖火に思いを寄せるようになったという。
転機が2013年9月の再度の東京開催決定だった。森さんには同じく「幻のランナー」となった甲陽学院高校同窓生の近藤宏さん(74)らから「何かやろうや」と誘いがかかった。協力して新聞を調べ、他校の同窓会に頼んで当時のランナーを探し出した。当時の約670人の参加予定者のうち約160人と連絡がついた。18年には「56年目のファーストランの会」を発足させ近藤さんが会長、上塚さんが副会長となった。
メンバーは「1964年の聖火リレーは、まだ終わっていない。体が動く元気なうちに今度こそ、聖火リレーを走りたい」と、阪神間の自治体に懸命に申し入れた結果、各都道府県で1組だけ選ばれる「グループランナー」として会の10人が県から認可された。「代表で誰かひとりでも走れればと思っていた」と森さんらは喜んだ。そして合同ジョギングなどを重ねてきた。
あれから57年、「途切れたタスキ」はようやくつながれたのだ。聖火リレーは兵庫県の2日目が5月24日、丹波篠山市の篠山城跡で開かれた。フィギュアスケートの紀平梨花、元テニス選手の沢松奈生子、陸上の朝原宣治ら県ゆかりの著名人らに負けず、この日に注目された高齢者軍団が「56年目のファーストランの会」の10人だった。残念ながらコロナ対策で公道走行は中止されたものの、開会前から雨模様だったが彼らが走るときには雨は上がっていた。「お天道さん」も長年、あの時の台風の気まぐれを反省していてくれたのかもしれない。