近年、さまざまな要因によって旧来の「男性像」が揺らいでいる。ビジネスジャーナル読者のミドルエイジも、これまでのノリが通用しなくなって日々の振る舞いに苦慮することもあるだろう。そこで、男社会の行く末や振る舞いの変化について、『さよなら、男社会』(亜紀書房)の著者である尹雄大(ゆん・うんで)氏に聞いた。
「男らしくあれ」「男でしょ!」「男のくせに」……。男性なら、人生で一度は言われた経験があるだろう。そのような言葉や空気によって、なんとなく男というのは自信に満ちあふれ、強さやリーダーシップを発揮し、決断力に優れ、誰からも頼られる存在であるべきだと思い込んでいる人も多いはずだ。
しかし、近年のジェンダー意識の高まりや女性の社会進出などにより、そうした旧来の男性像は否定もしくは批判される機会も増えた。コミュニケーションのつもりだった会社や居酒屋での言動が「セクハラ」とされ、戸惑う男性の姿も散見される。そして、それは今まで許されてきた社会が変わりつつあることを示している。今までの社会とは、いわゆる男性優位社会や男社会と言われるものだ。
『さよなら、男社会』を上梓した尹氏は、これまでの男社会をこう分析する。
「今までの男社会は、簡単に言えば『少年ジャンプ』のような『勝利、努力、友情』を是とし、弱音を吐かずにがんばることが偉いとされる空気が蔓延していました。そんな社会で、ただがむしゃらにがんばっていると不安や虚しさも訪れますが、その心の穴を埋めるのが女性。妻であり、恋人であり、母です。『大丈夫、あなたはがんばっている』と言ってほしいし、それが男社会を生きる男性が要請する女性像の大半でしょう。……こうして話すと、時代錯誤に思えますが、ほとんどの男性はこのような男社会について無自覚であることが多いです」(尹氏)
尹氏自身も、そのような男性的な振る舞いを強要された過去があるという。
「父は折に触れて『力なくして尊敬は得られないし、力なくしてこの日本社会を生き抜けない』と言っていました。『男ならば当然』と言わんばかりに、こうした力への信奉を強いられていたのです。ただ、僕はそういう環境に違和感を抱え、いまいち適応できずにいました。子どもの頃にチック症を発症したのはその表れだと思いますが、父からは、さらにその適応のできなさを乗り越えることを求められた。つまり、僕という個人の状態に関心が払われていたのではなく、男としての価値を計られていたのです」(同)
尹氏が男社会に関する書籍を上梓した背景には、そうした違和感を抱き続けてきた事情があったわけだ。
弱音を吐かないという信条のもとでは、個人の感情や気持ちなどは隅に追いやられる。組織に属していれば「できるかできないか、じゃない。やるんだ」などと言われた経験がある人も多いだろう。ここにも男性的な振る舞いが端的に表れていて、男社会においては自分の気持ちを伝えるよりも「とにかくやります」という決意表明が重んじられる。
このような(男)社会的に合意が取れる論理と経験に則った結論を押し付けた結果、「男は論理的で女性は感情的」という揶揄が生まれた。
「決意表明が求められる社会に慣れ親しんでいる人は、『○○すべき』『○○だ』と強い断定口調を尊重します。『こう思うけど、やっぱりこうかもしれない』という曖昧な言い方には価値が置かれないのです。このような男社会の平均的な感覚に従う話法が“論理的”と男性の中だけで評価されているとすれば、女性の話法はそれと違うので『論理的ではない』と判断されるのも当然でしょう。男が論理的というのは、そういう社会構造が生み出した幻想であり、主導権を握りたいがための言い訳として用いられているのではないでしょうか」(同)