前回、「仕事に情熱を注げなくても問題ない」という話をした。仕事に情熱を注ぐこと自体、もちろん悪いわけではない。情熱を早く求め過ぎることが問題なのだ。また、徐々に情熱を注げるようになったとして、それが行き過ぎるとまた弊害が生じる点に注意する必要がある。仕事がアイデンティティのすべてになってしまうような場合だ。今回は、「仕事に情熱を注ぎ過ぎると危険」であるという点について述べたい。
職場の幸福に関する専門家であるジェニファー・モス氏は、「仕事に情熱を傾けている人のほうが、些細なきっかけで燃え尽きるリスクがある」と警鐘を鳴らす。仕事がアイデンティティのすべてになってしまっているような場合、仕事で失敗をした場合など、それは即座に自己否定につながり、計り知れないダメージを受けてしまうことになりかねない。
仕事以外の場も多様に持っている場合には、そのうちの一つである仕事において失敗があったとしても、さほどのダメージも受けることなく、やり過ごせるということがある。情熱を注げるものが他にあれば、仕事で失敗があっても、その情熱を注げるものに没頭することで緊張をほぐし、エネルギーを蓄えることも可能となる。
最近のある研究によれば、私的な情熱と仕事が大きくかけ離れているとき、こうした好影響はいっそう大きくなるという。欧州では、仕事以外の活動に情熱を傾けている人が少なくない。ドイツでは、半分近くの人が仕事のあとの時間に少なくとも一つの団体に参加し、スポーツやガーデニングなどの活動をしているという。しかし、米国でも日本でも、趣味や仕事以外の活動を積極的に行っている人は少ない。
不登校になってしまう場合、教室以外にも居場所があるから学校へ行かないのではなく、そこにしか居場所がないと感じて、気持ちが追い詰められてしまうから学校へ行けなくなるのだそうだ。教室以外に居場所があると感じられる生徒のほうが、かえって学校へも行きやすいのは、それだけ学校での人間関係の重さが相対的に減じられるからなのだ。
しかも困ったことに、仕事が自分のアイデンティティのすべてになりやすい状況がある。それにより、好むと好まざるとにかかわらず、気づいた時には、仕事一辺倒の人生となってしまっている場合が多い。
企業の中では、たくさん働くことは、昇進や昇給として報われることになる。日本企業では、こうした点をうまく使って、すべての従業員のモチベーションを維持し、場合によっては過剰労働を誘発してきたという面がある。同期の社員の中で評価にわずかな差を設けることで競争心を煽るような仕組みだ。同僚よりも少しでも早く昇進するために必死で働くようになる。そしていつの間にか、出世することが人生の目的であるかのようになってしまう。
金融機関に勤めていて、体を壊したのをきっかけに転職をした友人は、「なぜそんなことに20年以上もの間、心血を注ぎ続けてきたのか、今となっては理解できない」と言う。魔法が解けたようなものなのだろう。内部にいる時には気づけない。それくらい、特定の文化に染まってしまうということは、個人に大きな影響を及ぼすものなのだ。もしその友人も体を壊して転職をしていなかったら、おそらくは定年退職後、あるいは役職定年後になってはじめて我に返ったのであろうと思う。
また、世間の評価を気にすることで、仕事が人生の中心になりやすいという面もある。何か特別な才能があって、誰からも賞賛されるような人は一握りしかいない。しかし、誰もが承認欲求があり、自己顕示欲を持っている。誰からも認められなくても満足という人はあまりいないわけだ。進化心理学的に言えば、これらの欲求は、集団の中でより多くの子孫を残すうえで育まれていた感情といえる。