先の読めない変動の激しい時代になり、これからは発想力を鍛えなければならないと言われる。そのためには従来のように知識を吸収するような学び方ではダメだとして、「脱・知識偏重」を掲げて教育改革が進められている。
だが、今の若者は果たして知識偏重の教育を受けてきたのだろうか。教育現場にいると、むしろ知識の乏しさを感じざるを得ない。さらに言えば、知識は発想を妨げるだろうか。むしろ知識の豊かさが発想を後押しするのではないだろうか。
もしそうなら、今の子どもたちは見当違いな教育を受けていることになってしまう。
知識を伝授するような授業はもう古い。これからは学習者が能動的・主体的に学ぶように促さなければならない。だから教師は授業で教えるという姿勢を取ってはいけない。そのような議論もしばしば耳にする。
ある大学でのことだ。教育学の教員が、「自分は何も教えない。君たちが勝手に学ぶんだ」と言って、授業で毎回雑談ばかりしている。あんな授業に出ても意味がない、授業とまったく関係ない雑談ばかりだ。そんな苦情を学生たちが口にした。
別の大学でも似たようなことを経験した。やはり教育学の教員が、授業が始まるとその日のテーマを黒板に書き、学生たちはすぐに教室を出て60分間図書館で過ごし、文献を探したり読んだりして、その日のテーマに関連した簡単なメモを作成し、教室に戻り、最後の15分で何人かが指名されて発表する。学生たちは、先生は授業中も研究室で寛いでいるし、手抜きだ、これでは自習と同じで、授業料払う意味がない、と文句を言っていた。
どちらの教員も、「教える授業はもう時代遅れだ」というような発言をしていたので、けっして悪気があるわけではなく、最先端の授業を自ら実践しているつもりだったのだろう。
知識や理論を教えると受動的な学習になってしまう、能動的な学習にするには教えてはいけない。そのように言われることがあり、それを真に受けて「教えない教育」に徹する教員もいるわけだが、それは能動的な学びということを取り違えているのではないか。
心理学者の市川伸一も、「教えない教育」の弊害について指摘している。学習相談室にやってくる生徒たちの悩みで最も多いのが「授業がわからない」というものだが、その理由が「教えない教育」にあるという。
子どもも大学生も、何の知識もなく考えるように言われても、十分に考えることはできない。教科書や資料を読んで自分で考えるように言われても、だれもが自分で読んだだけで深く理解し吸収できるわけではない。知識も経験も豊富な教員がわかりやすく解説することで、学習者は知識を深く理解し、それを思考の道具として使うことができるようになるのである。「教えない教育」では、自分で自由に考えるように言われても、思考の道具として使える知識が乏しく、そのため自分の経験を抽象化することができないため、深く考えることができない。
変化の乏しい静的な社会では、知識の伝達が価値を持ち、知識伝達-知識受容という形の教育が有効だった。しかし、これからの変化が激しく予測不可能な社会では、既存の知識の価値は薄れるため、知識の伝達・受容といった形の教育では対応できない。ゆえに知識伝達-知識受容型の教育から脱して、学習者が受け身にならずに能動的に学び、学んだことを生活実践の中に活かせるようにしないといけない。
このところの教育改革においては、そのような議論が盛んに行われている。それは部分的には正しいのだが、どうも短絡的な気がしてならない。