ITの発達により私たちの生活は目まぐるしく変化し、この先どのような社会になっていくかの予測は非常に難しい。だが、私たちがこれまで学んできた知識というのは、社会が変化したら意味がなくなるものばかりではないはずだ。私は、社会の変化にどう対応していくか、あるいは社会をどんな方向にもっていくべきかを考えるにも、知識が大きな力になると思う。
教育改革に関する議論の中では、もはや知識を学ぶ時代ではない、自ら考えるような学びを中心にすべきであるというようなことが言われるが、知識がないより知識があるほうが思考が深まり、適切な判断ができる可能性が高いはずである。
たとえば、戦国時代の人々の生活様式と現代人の生活様式はまったく異なるし、江戸時代の人々の生活様式と現代人の生活様式もまったく異なるが、それぞれの時代の思想に関する知識も、文学に関する知識も、歴史上の出来事に関する知識も、現代を生きる私たちにさまざまなヒントを与えてくれる。
最先端の技術的な知識ばかりが取り沙汰されるが、目まぐるしく変化してきた科学技術も、それを支援してきた政治体制も、思想と深くかかわっているし、人間の普遍的な欲望とも深くかかわっている。
社会に出てからすぐに役立つ学びが大切だといって、実践的スキルを学ばせる動きがあるが、たとえばプレゼンテーションのスキルばかり鍛えても、物事を深く理解する力、今後の社会の動きを想像する力が鍛えられていなければ、ろくな発想は浮かばないだろう。
知識偏重からの脱却が叫ばれるようになって久しいが、その過程で起こっているのは、紛れもなく知識不足による学びの乏しさである。
かつて小学校入試のために幼児に大人でもなかなか答えられないような知識の丸暗記をさせている光景を見たりしたとき、知識詰め込みはここまで来ているのかと呆れたものだった。だが、知識詰め込みへの反動から、今は中高生や大学生の知識不足が深刻な問題となるところまできている。
知識受容型の教育から脱却し、主体的に学ぶ教育で考える力を身につけるというが、知識なしに考えるというのはどういうことなのだろうか。まるで知識が思考の邪魔をするかのような議論が横行しているが、果たしてそうだろうか。
それぞれの専門分野を極めた知識人や博学な教養人が書籍や新聞・雑誌の記事で発信している内容より、知識も教養も乏しい人がSNSで発信する内容のほうが、よく考えられたものであり、今後の日本社会はそちらを重視する方向を目指すとでもいうのだろうか。
そんな疑問を常々抱いていたわけだが、引っ越しの際に荷物整理をしていて、30年前、40年前の学生たちのレポートを改めて読み返してみると、昔の学生たちほうが、世間的に言われる大学のレベルが低い場合でも、しっかりものを考えている跡が見られるレポートが明らかに多い。
本をよく読み、知識も多く取り込み、語彙を豊富にもつ学生のほうが、抽象的概念を駆使して思考を深めることができる。それがレポートにもよくあらわれているということだろう。
もはや既存の知識は意味がないといった発想こそ、重要な意味を取り逃している。教育現場では生きる基盤となり得る知識をしっかりと伝達することが必要であり、学習者に思考の道具となる知識を提示していかなければならない。
教育する側も、教育を受ける側も、知識軽視の姿勢を見直す必要があるだろう。知識は思考・発想を妨げるどころか、豊かにする。子どもの教育においては、まずは知識を吸収し、頭の中の世界を広げていくことが重視されるべきだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)