11月に光文社新書から『下町はなぜ人を惹きつけるのか?』という本を上梓した。この10年ほど下町をよく歩き、調査してきたが、そのまとめとなる本である。
東京の下町というと、皆さんはどこの町を思い浮かべるだろう。浅草、両国、錦糸町、門前仲町、葛飾柴又、あるいは足立区のどこかであろうか。「下町」をネットで画像検索すると圧倒的に浅草と柴又が多い。だが浅草と柴又はかなり離れている。どうしてそんな2つの町が同じ下町として認識されるのか。
また最近若い人たちに聞いてみたら、墨田区という声が多かった。浅草も柴又も墨田区も、最初から下町だったわけではない。結論を先に言うと、東京の下町は人口の増え方の特徴から見て4段階に分けられるのだ。
・第一下町:江戸以来の下町で日本橋、神田、京橋。
・第二下町:明治・大正以降の下町。震災前に人口が急増したが震災後は減少している。旧区名で浅草、下谷、芝、本所、深川が相当する。
・第三下町:関東大震災以降拡大した下町。荒川区、旧・向島区が相当する。
・第四下町:戦後の下町。震災後人口が急増し、戦後も人口増加。1932年に区となった旧・城東区、旧・王子区、江戸川、葛飾、足立の各区が相当する。
本書は以上の東京の下町を、貧乏長屋、同潤会、社宅など、住まいの観点と、娯楽・商業の観点を中心に調べ歩いた本である。いわば下町の都市社会史である。また、今まで下町としてはあまり書かれてこなかった芝、荒川、向島についても珍しい情報を提供している。都心については、日本橋、銀座ではなく、月島、神田三崎町、台東区佐竹について詳述しており、単に文学散歩、建築散歩ではない形で都市の歴史がわかる。
たとえば太平洋戦争前にオリンピックが計画されて中止されたことは有名だが、その会場は月島だった。同時に万博も開催予定だったが、これも中止。かつ東京市庁舎を月島に建設する予定だったのが、これも計画だけで終わった。
神田というと落語に出てくる熊さん、八っつぁんのような江戸時代と変わらぬ下町の中心地と思われがちだが、明治以降は万世橋に駅ができて、東京一の繁華街となった。百貨店の伊勢丹も松屋も万世橋付近で開業したのである。
水道橋駅南口の神田三崎町は、三菱財閥によって武家屋敷跡が再開発されたものであり、銀座と同じような煉瓦街ができ、今でいうショッピングモールのような街ができた。映画館も寄席もあるにぎやかな街だったという。
また現在の御徒町駅の東側の下谷区の秋田佐竹藩の屋敷跡には、日本で2番目に古い商店街が形成された。ここも一時期、三菱が土地を買い占めたが、三菱は開発せず、その後、商店街となった。だが商店だけでなく、見世物小屋、安い居酒屋などが立ち並ぶところだったらしい。
つまり、下町というと江戸情緒だ人情だというが、実は中央区、神田といった都心部は近代的なオフィス街、商業地に変わっていったし、浅草は娯楽の中心地となったのであり、いわゆる下町らしい雰囲気は急速に失われていったと考えたほうがいいのだ。
さて、ではなぜ下町は懐かしまれるのか。下町がノスタルジーの対象になったのは1970年代からである。1960年代には、吉永小百合や倍賞千恵子らの映画によって下町が舞台となり、町工場が密集し、貧乏な人々が住む下町というイメージが広がっていた。しかしそれは高度経済成長を支える人々が現在進行形の主役であって、ノスタルジーの対象ではなかった。
また1960~70年代は、都心部や下町が大気汚染や交通事故の増加などで居住地としては適さない場所になっていった時代である。そのためサラリーマンで比較的所得の高い人々は、東京の西南部の山の手・高台を中心とする郊外住宅地に移動していった。