ところが60年代末以降になると、テレビドラマの『時間ですよ』、映画の『フーテンの寅さん』がヒットし、下町は高度経済成長時代の日本が忘れかけた人情味あふれる、伝統的な社会、あるいは「心のふるさと」として懐かしまれ始める。人々の仕事がホワイトカラー化し、東京の人口重心が山の手に移動すればするほど、下町はノスタルジーの対象として「発見」されることになったのだ。
そもそも柴又は、本来帝釈天の門前町であり、われわれが商店街と思っているものも本当は参道なのであるが、それが「下町」として「再定義」されることになったのだ。浅草の仲見世が生活に密着した商店街ではないのと同じことである。
だが、そうした場所が下町だと思われるようになった。寅さんは、サラリーマン化する社会に背を向けるように気ままに日本を放浪し、半年に一度柴又に戻ってくる。柴又がふるさとだからである。地方ではなく下町が日本人のふるさとになったのである。
こうして1970年代以降、下町が懐かしまれる時代が始まり、特にバブルが崩壊し、不況が長引き、日本人の未来が明るいものとして希望を持たれなくなると、下町ブームはますます定着する。かつてあった『下町の太陽』という映画タイトルに象徴されるような、明るい、未来への希望に満ちた時代が、下町という地域イメージとともにますます懐かしまれるようになったのだ。
所得が上がらない現代の若者は、下町に出かけて安くて美味いホルモン焼きを食べて元気を出そうとするようになり、あるいはしばしば下町に引っ越して、安い家賃で家を借り、周辺住民と語らいながら暮らすことに幸福を感じるようになった。かつてあった底辺労働の苦しみも、貧乏な長屋も、活気のあった商店街も、今も残る人間味のある近所づきあいも、若い世代にとっては幸福につながった。
特に荒川区や墨田区は、神田のようなチャキチャキの江戸っ子の下町ではなく、地方から集まった人々が方言混じりの言葉で話す朴訥な下町である。地方からも外国からも人々が流入してくることに寛容である。だから今、若い世代が流入してきても、すぐに溶け込みやすいのだ。このように考えると、下町の魅力というのは、労働する人間の魅力、庶民の暮らしの記憶ということになるだろう。
狭い借家に家族が暮らし、洗濯物は玄関の前に干し、部屋の中にいる姿も通りから網戸やすだれ越しに見える。庭はないが植木鉢を家の前に飾り、緑を楽しむ。プライバシーの中に閉じこもらず、あけっぴろげで、気さくで、言いたいことを言って生きている。そこには人間が居る。
ただし、下町も近年は防災などの観点からマンションやプレハブ住宅の建設が進んでおり、木造の長屋、商店はどんどん消滅している。街角に座り込んで世間話をするおばあちゃんたちも行き場を失いそうだ。荒廃した空き家も多く、所有者不明の空き家も多数あるようである。道は狭く入り組んでおり、たしかにここに大地震が来たら、かなり危ない。昔を懐かしむだけでは対処できない現実がある。
それでも私は、下町の、人々が自分に閉じこもらずに、生活を町に開いている雰囲気がこれからも何らかの形で下町以外のいろいろなところに増えていってほしいと思っている。
関東大震災からもうすぐ100年である。震災と戦災で大きな被害にあった東京の下町は、これから数年の間に相当様変わりするに違いない。私は過去20年の東京の街を歩いてきたが、5年たつと多くの建物がなくなる。そういう意味で本書は東京の下町の最後の記録のようなものになるかもしれない。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)