藤井聡太棋聖の史上初の「十代二冠達成」なるか、王位戦七番勝負第4局、2日目の8月20日、空振り覚悟で神戸市から炎天の福岡市に駆け付けた。対局場は大濠公園の能楽堂だったが、新型コロナウイルス対策もあり、入れるのは主催者(日本将棋連盟、西日本新聞)とNHK、AbemaTVだけ。筆者ら他の報道関係者は天神の西鉄グランドホテルでAbemaの中継を見ながら記者会見(藤井が勝った時のみ)を待つしかなかった。
午後4時59分。「参りました」。黒いマスク姿の木村一基王位(47)が将棋盤に右手をかざして投了した。藤井の7七角は王手ではなくまだ80手目。「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれる受けの名人はカド番で臨んだが、粘る気力も起こさせない藤井の差し回しだったのか。「ストレート負けはお恥ずかしい。申し訳ない。家に帰って反省し、出直します」などと言葉少なだった。
記者会見場に一人現れた藤井は「(全勝は)望外というか実力以上の結果」などと語った。藤井は羽生善治九段のタイトル二冠獲得の最年少記録、21歳11カ月を大幅に更新した。同時に規定で八段に昇段。これは「ひふみん」こと加藤一二三九段(80)の最年少八段の記録(18歳3カ月)を62年ぶりに塗り替えた。
昨年、46歳で初タイトルを獲得して感涙し「中年の星」と親しまれながら、若き天才の前に防衛ならなかった木村を見て加藤を思い出した。1983年、無敵の中原誠名人を大激戦の末に4勝3敗で下して悲願だった名人を獲得した。当時は携帯電話もなく、勝った直後に公衆電話に走り妻に「勝った、勝った」と大声で伝えたそうだ。43歳だった。だが翌年、彗星のように台頭してきた谷川浩司九段に2勝4敗で敗れて一期で明け渡した。中原は十六世名人、谷川も十七世名人資格だ。大名人に挟まれた加藤は名人への復位は果たせず引退した。しかし、木村にはぜひともリベンジを期待したい。
さて、今回の対局、勝負所で注目されたのが藤井の「封じ手」である。「封じ手」というのは名人戦、竜王戦、王位戦のように一局が2日制の時、1日目の終了時刻に手番だった側が指す手を書いて封筒に入れて、立会人に渡し厳重保管。翌朝、封が切られて書いてあった手から再開する。翌朝の手番になった側が一晩中考えられたら、各自の持ち時間(王位戦は8時間)に不公平が出るからだ。囲碁は1通だが、将棋では2通同じものを書き立会人に渡す。藤井は誰にも見られない場で指し手を書き、割り印のように木村がサインし、立会人の中田功八段に渡した。1通は金庫で保管された。
この局面、木村は8七銀と自陣の銀を攻めてくる藤井の飛車にぶつけた。銀には金の「ひも」がついており、藤井が「同飛車成」と飛車で銀を取っても金で飛車が取られる。飛車を3六に逃がすのが常識的な手だったが、開封された封じ手は「8七同飛車成」だった。
そこから角を相手の角にぶつけ交換を迫るなど激しく展開し、藤井は木村の王を追いつめてゆく。「王の早逃げ八手の得」の格言で右側へ逃がすかと思ったが、木村は上段へ逃がした。「王手金取り」と藤井陣に飛車を打ち込むが攻撃もそこまでだった。
記者会見場にふらりと現れた井上慶太九段(56)は「飛車を切って(犠牲にして)くるとは思わなかった。驚いた」と話していたように、ほとんどの棋士は「8七同飛車成の封じ手はあり得ない」とみていた。ちなみに井上はプロ入り後の藤井を破った棋士の中で最年長である。相手玉に詰みが見えてくる終盤なら、大駒を切って追い詰めることも多いが、まだ駒得を図ることが多い中盤での「飛車捨て」は驚きだ。