裏返せば、木村は銀を飛車にぶつけたことも敗因かもしれない。藤井が飛車を逃がせば木村にはさまざまな次手が考えられるが、成り込まれれば取るしかない。もちろん木村もそれは考えたはずだが。「驚きの封じ手」について藤井は「自信のない局面だったので、なんとか強く踏み込んで勝負しようと思った」と振り返った。
将棋の封じ手は昭和初期に、チェスの封じ手を習って導入されたとされる。1977年の十段戦(現在の竜王戦)、中原誠対加藤一二三戦で加藤が初日の夕方に大長考して封じ手を決められず、夕食後に再開、結局、封じ手に3時間以上使う珍事もあった。1996年の名人戦、森内俊之対羽生戦で1日目の終了時刻になったため立会人が森内に封じ手を促したが、「指すつもりだったのですが」と森内が指してしまった。こじれたが認められ、封じ手は急遽、羽生になった。時計係の時計と森内の時計がずれていたのが原因という。
封じ手については「封じる側が有利」と考える棋士や、気にしないタイプなど、棋士にもよるようだ。封じてから「しまった」と思っても変えられず、寝られないこともあるだろう。
さて、まだ今回の王位戦が2日制対局の初体験という藤井。7月に行われた豊橋市での第1局では、封じ手番になったが作法も知らず、教わりながら手続きしたばかりだ。福岡の第4局、木村は藤井が席を外していた午後5時43分に41手目の8七銀を指した。戻ってきた藤井は直後に42手目を封じることを立会人に伝えた。つまり終了時刻の6時までに自分は指さない意思表示である。しかし藤井はすぐには封じず考え続け、6時20分にやっと封じた。ちなみに、定刻を超えてもいいが持ち時間からは差し引かれる。
結局、36分費やした。藤井は意思表示後に2通りの手の選択を悩んだのか。待つ木村は落ち着かない様子だった。
通常、封じ手は大きな勝負手を避けた手を選択するが、藤井はそんな「慣習」に関係なく勝負をかけてきた。仮に藤井が慣れていない「封じ手」でベテランを翻弄したとすれば、「優しい顔」をしていてやはり空恐ろしい18歳である。
(写真・文=粟野仁雄/ジャーナリスト、文中敬称略)