天下を目指す信長の前に立ちはだかったのは、歴戦の戦国武将だけではなかった。信長は、宗教勢力、特に一向宗に帰依する本願寺の門徒と激しい戦いを繰り広げた。越前においては門徒衆が大名を倒して、独自の自治組織を築き、信長の指示にまったく従おうとしなかった。
以下の手紙の内容は、門徒衆との戦いにおける自軍の勝利をことさらに誇示するものである。この合戦には、秀吉も光秀も参加していた。
……まずは、浜手の方にあった篠尾、杉津の両城を攻め崩した。その際、たくさんの首を斬り、憂さを晴らしたぞ。
……案の定、一揆衆が五間、三間ずつ間隔を開けて逃げ帰ってきたのを、府中の町で千五百ほど首を斬り、そのほかにも府中付近で都合二千余の首を斬った。
……府中の町は死骸ばかりとなって、一帯で空く所がない。そのありさまを見せたく思うぞ。
今日は、山や谷を尋ね探し、さらに一揆衆を打ち果たそうと思う。(中略)
……これらの趣旨を、荒木信濃守村重、三好山城守康長などにも報せて、喜ばせてやってほしい。
(吉本健二『手紙から読み解く戦国武将 意外な真実』学研プラス)
一読すると、信長の残虐性がよく表れている文章のように思える。事実、『信長公記』によれば、この戦闘で殺害された一揆衆は、1万2000人以上に及ぶという。
もちろん、信長が長年にわたって一向衆との戦いで苦汁をなめさせられ、彼らに対する相当の敵愾心を持っていたことは明らかで、それは文面からも読み取れる(実際、長島の戦いでは、信長の実弟が戦死した)。ただこの手紙は、むしろ過剰なくらい、「なで斬り」の戦果を強調していはしまいか。
実はじっくり読んでみれば、この文章の「肝」は、戦果の自慢にあるのではなく、荒木村重、三好康長の名前が記されている部分にあるのかもしれない。両名とも信長の配下にあった武将であるが、謀反の噂が絶えなかった。
事実その後の村重は、信長から離反した。一向宗に対する過剰な戦果の強調は作為的なもので、おそらく村重たちに対する「牽制」であり、それがこの手紙の主要な目的だったように思える。
この手紙は部下たちに対する、間接的な「恫喝」なのだ。このように、人の心の動きを見透かすようにして、事前にそれに対処をしようとする点は、信長の言動に特徴的である。
しかし一方では、このような「連絡」を受けた側としては、信長にすべてお見通しにされているようで、震えあがってしまったに違いない。信長政権で謀反がたびたび見られたのは、村重も光秀のように重用されていても気が抜けず、信長のすべてを見透かすような性質に耐えられなかったからかもしれない。
また、徳川家康による高天神城の攻略にあたっても、信長は細かい配慮を含んだ手紙を送っている。当時の高天神城は、武田方の傘下にあったが、間もなく落城しそうな状勢であった。
高天神城から降伏の申し出があった時、信長はこれを無視するように、家康に指示している。これにより信長は、「武田勝頼は高天神城に援軍を送らずに、見殺しにした」という状況を作り出そうとしたのだった。
しかしこの点を「命令」としては出さないで、「今後に気遣うことになるか、只今苦労するか、二つの見積もりはどちらが良いか分別しがたいので、この通りを家康殿に語って、徳川家中の家老どもにも申し聞かせて談合すればよかろう」と、最終決断は現場の大将である家康に一任するという心配りを見せているところが信長の老獪さである。ここには、ただ独断専行というだけではない信長が見てとれる。
確かに信長は、残虐で冷酷無比な行動をしばしばとっているように見える。けれども当時の基準に沿ってみれば、信長ひとりが際立って残虐だったと言えるかどうかは疑問である。例えば秀吉である。「庶民派」で「太閤様」と愛されるキャラクターであった秀吉においても、自らに謀反を起こそうとしたという理由で、甥の秀次の一族郎党数百人を処刑し、さらし首にしているのだ。