このときの人脈が日本M&Aセンターの会計事務所ネットワークの基礎となった。クライアントである会計事務所で「経営権の承継」問題が増えていることがわかった。後継者問題を解決するためのM&Aが必要だと考えた。91年、公認会計士や税理士とともに、日本M&Aセンターを設立。取締役に就き、翌92年に社長に就任。2008年に会長となる。
三宅氏は神戸市の生まれ。大阪工業大学工学部経営工学科卒。「プロの写真家」になるつもりで暗室に籠りきっきりになり、2年留年した。その頃、写真のテーマにしていた「人間疎外」を解決するツールはコンピュータだと信じ、1977年、コンピュータ会社の日本オリベッティに入社。工学部出身だったのでソフト部門を志望したが、「ソフトの才能」がないと言われ、1年で営業に出された。新卒営業は飛び込み新規開拓部隊で、そのときの上司が“鬼の営業課長”の異名をとる分林氏だった。
分林課長の下で会計事務所営業を6年。その後、金融機関に融資支援や国際業務のシステムの企画・販売を行うビジネスを7年やった。名古屋の金融事業所長をやっているとき、分林氏が名古屋にセミナーにきていて、夕食をともにした。
夕食の席で、「今度、後継者問題を解決するためにM&Aの会社を設立するつもりだ」という話を聴き、「これにはぜひ参加したい」と思った。「全国の税理士・会計士をネットワークするので全国展開が必要なのだ。俺(=分林)が東をやるから、お前(=三宅)は西をやってくれ」ということになって参加した。ちょうど38歳の時だ。
日本M&Aセンターは分林氏と三宅氏が二人三脚で立ち上げ大きくした会社だ。三宅氏は2008年、分林氏の後任の社長に就いた。12年8月9日放映されたテレビ東京系の『カンブリア宮殿』で、インタビュアーの村上龍氏から、三宅氏は自著『会社が生まれ変わるために必要なこと M&A「成功」と「幸せ」の条件』(経済界刊)について「今年読んだ本で一番面白かった」と言われた。
日本M&Aセンターは全国の会計事務所を「地域M&Aセンター」としてネットワーク化。20年3月末現在、899の地域M&Aセンターがある。会計事務所のネットワークは、分林氏の日本オリベッティ営業時代からの約40年の付き合いを基に出来上がった。
2000年、地方銀行とのネットワークの拡大を目的に全国M&A研究会を立ち上げた。信金中央金庫と提携後、子会社の信金キャピタルや全国の信用金庫と提携を順次拡大していった。20年3月末現在、98の地方銀行、215の信用金庫と提携している。地域金融機関のネットワークは、三宅氏が金融機関営業をやっていたときからの20年以上の付き合いでつくられた。
M&A支援専門会社として06年、東証マザーズに上場。07年、東証1部に指定替えになった。16年から海外に進出。19年には上場支援サービスを始めた。
中高年サラリーマンから脱サラして起業した2人は大成功を収めた。分林会長の持ち株比率は4.62%で第5位の株主。三宅社長は7.08%を保有する第3位の大株主だ(20年3月末時点)。2人とも決して若くはない。中小企業の経営者と同様に、日本M&Aセンター自身が「経営権の承継問題」に否応なしに向き合わざるを得なくなっている。
(文=編集部)