物語文は、説明文と並んで国語の重要題材です。なぜでしょう?
赤ちゃんのころから読み聞かせられる「お話」は物語です。幼稚園や保育園で手にする絵本も大半は物語で、文字が読めるようになって接する多くの本は物語でしょう。物語の先には小説が待っています。映像になればドラマやアニメ、映画となります。
物語や小説は、自分が身の回りの世界では体験できないことをその中で体験させてくれます。その内容や、疑似体験を通じて、人生を生きるうえでのさまざまなことを教えてくれ、豊かにしてくれます。その入り口のひとつが、学校で扱う物語文です。
物語文を国語で扱うことの第一の意義は、物語・小説への入り口を用意することであり、将来物語や小説を読んで人生を豊かにする助けとなることであると思います。そのためには、子どもには物語を楽しく読むこと、感じることを体験してもらうべきでしょう。
しかし、国語の授業がややもすると、読み方の(ありもしない)「正解」を押しつけ、逆効果となってしまう場合があることは、本書の冒頭にも例をあげたとおりで、否定しません。
私がここでお伝えしたいのは、物語を楽しむことで得られる副産物についてです。学校で物語文を読むことで得られるのは、小説を楽しめるようになることだけではありません。
人物像を読み取ること。場面、場面における登場人物たちの心情を読み取ること。その場の空気を読み取ること。これらが、物語文の読解から得られる力です。これらが読み取れるということは、小説を楽しめることの大切な要素でもありますが、それ以外にも実生活に生きる力となります。
『ごんぎつね』という物語、ご記憶にあるでしょうか。長らく小学校の国語の教科書に登場していた日本の物語です。ひとりぼっちでいたずら好きの子ぎつね、ごんは、年老いた母親と暮らす兵十にいろいろないたずらを仕掛けます。
ある日、兵十の母親が亡くなり、自分のいたずらのせいで兵十が母親の最後の望みを叶えてあげられなかったことをごんは知りました。それからごんは、罪滅ぼしのようにこっそりと兵十のもとに栗やきのこを届けます。
それらを神様からの贈り物と思っていた兵十は、ある日、うちに忍び込んできたごんに気づき、火縄銃で撃ち殺してしまいました。ごんに近づいて、栗に気づいた兵十は驚き、「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのは」と言って後悔します。ごんは頷いて息絶えました、というお話です。
ある学校の国語の授業で、教師が
「なぜ、ごんはいたずらばかりするのか?」
とクラスに質問しました。多くの子どもたちが
「ひとりぼっちだから」
「さびしいから」