商売繁盛の祈願も同様だ。どれだけ利益を出しているかどうかに関係なく、参照点である現時点よりも利得が下がることを怖れているのである。プロ野球の常勝球団も最下位の球団も必勝祈願をする理由はそこにある。
新年に寺社で健康、商売繁盛、交通安全などの祈願をしてお札を授かり、神棚や長押にそれを飾ったとしよう。さて、翌年になって期限切れのお札を寺社に返却しにいったとき、また祈願をしてお札をもらうか、そのまま家路につくか、あなたはどちらを選択するだろうか。
このとき、Aさんは1年大過なく過ごせたのはお札のご利益のお陰なので、また祈願のお札をいただいたとしよう。他方、Bさんは、取り立ててよいこともなかったので、とくにお札を飾る必要もないだろうと考えて、返却だけして家路についたとしよう。
どちらの選択をしてもそれなりに理屈は通るが、問題はそのあとである。たとえば、AさんとBさんの家で、家族に重大な病気が見つかった、会社が減収減益となった、交通事故に巻き込まれたといった内容の不幸な出来事が起きたとしよう。それに対して、AさんとBさんはどのような反応を示すだろうか。
まず、Aさんは2通りが考えられる。1つは、翌年から別の寺社に切り替えるか祈願そのものを止めるというものだ。これは祈願の失敗への反応としては納得がいく。だがAさんが同じ寺社で祈願を継続するケースもありうる。
すなわち、上記のような不幸に見舞われても、「祈願をしていたから早期発見できた」「この程度の減収減益にとどまった」「大事故にならずに済んだ」などと現実を自分の信仰心に合うように解釈するのである。これは心理学で「確証バイアス」と呼ばれる認知の歪みであり、占いなどを信じやすい人にも多く見られる現象だ。
一方、Bさんの場合は、祈願を止めたことと不幸な出来事の因果関係を想起させるため、「祈願を続けておけばよかった」という後悔につながりやすい。そして、翌年にはまた祈願に戻る可能性が出てくる。
そして、Bさんのような思いをしたくないと考える人は、後悔を避けるために祈願を続けるという選択をするだろう。これは行動を変えることを忌避する「現状維持バイアス」と見なすことができる。
上記のようなバイアスの働きだけで、ご利益の有無に関係なく祈願が継続しているとは考えにくいだろう。実際にご利益がなければ、そのうち誰も信用しなくなると思えるからだ。この謎を解く鍵は、行動経済学者のA・トベルスキーとD・カーネマンが提唱した「確率加重関数」の考え方にある。
トベルスキーとカーネマンは、特定の事象が起こる確率に関して、客観確率と主観確率に乖離が生じることを実験によって見いだした。
それは、客観確率が低いと思われる人たちは、状況を楽観的に捉えがちで主観確率が高めになる一方、高いと思われる人たちは悲観的になりやすく主観確率が低めになるということだ。つまり、主観確率は客観確率に加重された結果なのである。
たとえば、入学試験を控えた受験生について考えてみよう。模試で志望校がE判定の受験生は「うまくすれば合格できるかもしれない」と思っている一方、A判定やB判定の出ている受験生は「当日に体調が悪くて失敗するかもしれない」と心配しているといった具合である。
このとき、寺社に詣でて合格祈願の札をもらったり、絵馬を掛けたりするのは後者のほうだろう。なぜなら、客観確率と主観確率のギャップを神仏の力によって埋めようとするからだ。そして、E判定の受験生は、もともと合格確率が低いことを承知しているので、祈願にカネや時間をかけるのは無駄だと思うのではないか。
これは健康祈願にも当てはまるだろう。日頃から自身の健康に留意し、状態もいい人たちは「もしかしたら病気に罹るかも」と心配して祈願をするだろうが、暴飲暴食を厭わない人たちは「元気だし大丈夫だろう」と楽観的に考え、祈願をしないかもしれない。
このような状況を想定した場合、当然ながらご利益は存在することになる。なぜなら、もともと合格確率の高い受験生や健康に留意している人たちが祈願しているからである。そして、「生存者バイアス」の働きによって、ご利益のあった人たちの情報が表に出やすいため、それが評判となり、ますます客観確率の高い人たちを寺社に呼び寄せるという循環が生まれると考えられる。
以上のように、私たちが日常的に行っている「祈り」には経済的な合理性はないものの、心理学的な要素が働いて、それが継続をもたらしていることがわかる。それゆえに、どのように科学が進歩しても、世の中に不確実な現象が存在する限り、私たちが「祈り」を止めることはないといえるだろう。