いきなり手段に走るな。
まずはWhyを問え。
おそらくこのメッセージは、耳にタコができるほど聞いている教訓だと思います。
思いつきのような手段ばかり打っている人がいたとしたら、「いきなり手段から考えるな。何を成し遂げたいのか、何が目的なのか、そこから考えろ」と指導されることでしょう。
しかし、「学び」の領域において、この教訓は必ずしも正しくありません。
Whyの問いを最初に追求してしまうと、必然性のある学びしか目に見えなくなる危険性があるからです。
たとえば、なぜかわからないけど「デザイン領域」に興味を持ったとしましょう。しかし、そこでWhyの問いかけをすれば、学ぶ理由の希薄さを自覚して、行動を抑制してしまう可能性があります。「冷静に考えれば、今の自分にあまりデザインは関係がないな」と。
そんな問いかけを繰り返していると、どうなるか。それは、「短期的かつ実務的に必要のありそうなこと」以外、目に入らなくなる可能性があるのです。
もちろん、必要のないことなら学ばなくたっていい、と思う人もいるでしょう。しかし、本質的に何が必要になるかなんて、私たちにはわからないのです。
これだけ変化の激しい世の中、「これから何を学ぶべきか」ということほど難しい問いはないでしょう。
目標としていた仕事や役職があったとして、数年後にそれがそのまま残っている保証はどこにもありません。テクノロジーの進化、加速する組織の流動化などをあわせて考慮すれば、キャリアの賞味期限は驚くほど短くなっていると思っていた方が健全です。
だから、「数年後のこのキャリアを目指して、今からこれを学びます」というロジックは確実に裏切られると思っていた方がいい。
むしろ、そんなアテにならない将来の必然性はそばに置いて、「面白そうだから学ぶ」で十分なのです。そして、学んでいる過程で、「ひょっとして、自分がデザイン領域を学んでいるのは、こういうことを実現するためなのかもしれない」と後づけで気づけばいいのです。
学び始めにWhyを問うべきではないもう一つ大事な理由があります。
それは、どれだけ緻密に学ぶ内容を定めたところで、期待通りの学びを得ることができない、ということです。
学びには「意図と結果は常に異なる」という黄金律があるのです。
実際に自分の過去を振り返れば、当初に意図したことをその通りに学べたことはほとんどなかったことに気づくのではないでしょうか。
大学の門を叩いた高校3年当時の「意図」と、実際の在籍4年間で得た「結果」が一致する人はそれほど多くはないでしょう。意図しなかった人との出会いや偶然の出来事からの気づきによって、学びというものは思わぬ方向に変質していったはずです。
もちろん、意図通りの学びを完全に得られなかったわけではない。しかし、事前の意図などちっぽけなものだと痛感させられるくらいの未知の学びが必ず待っている中で、「これを学ばなきゃいけない」と縛られるのは、その周辺にある宝物を見落としてしまうことになりかねません。