ビジネスパーソンの学びに「理由」がいらない訳

何を学んでも、人とは同じにならない

では、なぜ学びは意図通りに進まないのか。それは「知識の構成主義」にヒントを見出すことが可能です。

『私たちはどう学んでいるのか』(ちくまプリマー新書)という書籍で、認知科学の専門家である鈴木宏昭氏は、こう語ります。

相手からの情報、その記憶が知識となるためには、それらの素材を用いて知識として構成していかなければならないのだ。構成するのはもちろんあなただ。あなたのこれまでの経験は人と異なるだろうし、これから出会いそうな場面も異なるだろうから、構成される知識は人によって少しずつ異なってくる。より多くの関連した知識と結びつきを作ったり、その知識がカバーする事柄をたくさん経験した人が構成する知識は、単にクイズのように覚えた人のそれとはまったく異なったものとなる。
難しい言葉で言えば、知識というものは「属人的」なものなのだ。

つまり、ある知識を他者に伝えたとしても、受け取った側はその知識を自分の中の経験や他の知識と組み合わせて再構成してしまう、ということです。

だから、マーケティングのことを教えたとしても、受け取る側はその内容を勝手に再構成して、たとえば「恋愛テクニックを学んだ!」とか「キャリアについての気づきを得た」というように変質させてしまうのです。そういう意味では、みんな同じものを見ながら、違う世界を見ているとも言えるでしょう。つまり、各自が勝手に構成した「属人的」な世界の住人なのです。

その視点から考えれば、固定的で普遍的な知識や学びは存在しないと言えるのだと思います。学びというのは、個人の中にある過去の記憶や経験、知識のランダムな作用によって勝手に構成されてしまう極めて流動的で属人的なものなのです。

私が、学びにおいて、あるべき姿からの逆算に基づいた過度な設計主義から距離を置くのは、ここに理由があります。残念ながら、私たちは、事前に自分が想像していたことを、事後になって受け取ることができないのです。

そうだとするならば、学習計画や意図を持った学びというものを手放し、遊び心を持ち、より柔軟な姿勢で構えておく方が結果的に豊かな学びにつながっていくのです。

何が無駄か、は事前にはわからない

人生において、事前に何が無駄なのか、ということの判断をつけることはできません。無駄のように見えて、事後的にその意味がわかることもある。それが生きることの楽しさとも言えるでしょう。だとしたら、今見えていることだけで「必要性がある」ということを学んでもつまらない。

その一方で、必要性が全くなく、単なる好奇心や好きといった感情が動くことを突き詰めていくことが、知らぬ間に実用的な学びに変わることもあるのです。

私が「良い学び方」は「良い生き方」につながっていく、と言うのも、この辺に理由があります。

「なぜ生きるのか」という理由(Why)を最初に問うたとしても、それがわかる人は稀でしょう。多くの人は、人生の終盤になってからようやく理解できるものなのだと思います。

まだWhyがわからないステージで無理にそれらしき理由を捻り出すのも一つのやり方かもしれません。しかし、まずは自分の心が動くところに意識を集中して、Whyが立ち現れることを待てばよい。なぜ学ぶのか、その答えは後からやってくるのです。