仕事で「勘」を大事にする人が意外と本質を突く訳

もしそのような命を受けた場合には、私は真っ先に、いま市場に出回っている炭酸ジュースを、片っ端から飲んでみることをおすすめすると思います。安易に大規模な市場調査を実施して、情報を収集したつもりになってはいけないでしょう。もちろん、「調査が不要」と言っているわけではないことにも注意が必要です。

なによりも「実際に飲んだのかどうか」。

この段階ではじめて強い情報を獲得したことになります。

また、現地現物で、情報を取りに行った際には、欲しかった情報以外にも、その場で、五感を通して、説明のしようがない情報までを得ることができます。

それは、その人自身が抱く「違和感」です。

違和感こそが、最強の情報センサー

みなさんは、非の打ちどころがない資料や完璧に思えるデータを見たにもかかわらず、どこか違和感を抱いたことがありませんか。

その場合、違和感を無視して、その情報の正しさを受け入れるべきでしょうか。

自分が感じた違和感を「私の間違いだ」あるいは「私の勘違いだ」と否定すべきでしょうか。

答えはNOです。人間にもセンサーはあります。

そのセンサーは、その人がこれまで生きてきた経験の中で、磨きに磨いてきたオリジナルの情報感知器です。

その情報が、たまたま言語化、数値化できず、説明できないものである可能性だって多々あります。いわゆる「勘」というやつです。

このような「違和感」は、愛すべきプラス材料です。勘は論拠にならい、なんて議論もあるかもしれませんが、果たして勘という情報までを落として思考を巡らせてよいのでしょうか。というのも「どこに、あるいは何に、違和感を抱くのか」を見える化していくことで、さらに大きな「発見」に行き着くようなこともあるからです。

例えば、スーパーマーケットの経営者の気持ちになってみましょう。そして、「以前は人気だった特上にぎり寿司セットが、なぜかある時期から売れなくなってきた」ということに悩んでいるとします。そして、周囲の人間からは、「コロナ禍によりお客の来店数が減ってきたから」だというもっともらしい理由が挙げられたとします。

また実際に、来店客数が3分の1に減っていることも確認できているとします。

でも、そこになぜか腹落ちできず、そこに違和感を抱くこともあるかもしれません。しかもその正体は、その時点ではその人自身でもよくわからないものだと思います。けれどもこのような場合、よくよく調べてみたら、いろいろなことがわかることもあります。例えばですが「その特上にぎり寿司セットを食べて食中毒になった」というツイートが拡散されてしまっていた。なんてことがわかってくることだってあります。庶民的なスーパーの話をしましたが、情報工作もフェイクニュースも同じ類の話です。

だからこそ、自分が違和感を抱いたときには、徹底的に納得するまで調べ上げる必要があります(特に自分に関する話においては)。違和感を信じたことで、問題が発見され、早めに適切な対策が打てるようになるほうが、誰にとっても有益です。

また、違和感を得た後に、ここで挙げた例のようなわかりやすい証拠やデータが判明すれば良いですが、確証をつかめないままの場合もあります。その場合は、もやっとした違和感だけが残ることでしょう。

特に、人間関係での違和感の場合は、そのパターンが多くなります。

例えば、誰かに対して「これまでと何かが違う」と感じたときに、それがただの気のせいであったことはどれほどあるでしょうか。誰しも生きていく中で、歳を重ねるにつれて、人間関係の悩みも増えていきます。それによって、違和感というセンサーの精度も高まっているはずです。

しかし、そのセンサーを仕事で情報を精査するために使わない手はありません。