仕事の質は「どう」ではなく「誰」とやるかで決まる

考えるべきは、「どうやるか」ではなく「誰とやるか」です(写真:Pangaea/PIXTA)
重要な仕事を突然任され、そしてその締め切りが明日だというとき、あなたはまず何を考えるでしょうか。
「さて、いったいどうやろうか」と、その方法から考えて自分だけで何とかしようとする人は多いでしょう。しかし、そのためには残業して孤独に仕事をし続ける必要があるかもしれません。さらに、そこまでして頑張った仕事の成果は、一定以上のものにならない場合が往々にしてあります。
そんなとき、考えるべきは「どうやるか」ではなく「誰とやるか」です。その具体的な考え方を、『WHO NOT HOW 「どうやるか」ではなく「誰とやるか」』から一部を抜粋して全3回でお届けします。
第1回:仕事の質は「どう」ではなく「誰」とやるかで決まる(本記事)
第2回:激務の起業家が「1人雇って」得た500時間分の価値
第3回:「自分の利益」で人脈づくりをする人には近づくな

マイケル・ジョーダンが必要としていたサポート

マイケル・ジョーダンは、史上最高のバスケットボールプレーヤーだ。ところが意外にも、NBAに入って最初の6年間、優勝には縁がなかった。

1984年のドラフトでシカゴ・ブルズに指名され入団したが、最初の3シーズン、チームはファースト・ラウンドで早々に敗退していた。彼自身はベストプレーヤーの1人として頭角を現していたが、結果を出せずにいた。ブルズにとって、マイケル1人の力では優勝できないことは明らかだった。

最高の才能に恵まれたプレーヤーではあっても、サポートが必要だった。マイケルが必要としていたのは、「どうやるか(How)」ではなく、「誰とやるか(Who)」だった。

1987年、ブルズは、ルーキーのスコッティ・ピッペンをトレードで獲得。彼がマイケルの理想的な協力者になった。スコッティは、ジョーダンの攻撃性と競争心を即吸収し、攻守両方のスキルを磨いて、プレーを後押しするとともに、ジョーダンがワンマンプレーヤーからチームプレーヤーへと進化する手助けもした。

2人がそろった最初のシーズンで、ブルズはついにファースト・ラウンドを突破した。その後の2シーズンは続けて、セカンド・ラウンドでライバルのデトロイト・ピストンズにたたきのめされたが、ジョーダンとブルズにとって、この「敗北」は、優勝という最終目標を必ず達成すると決意するために、ほかの何よりも必要なものだった。

責任をチームで分担

1989年になると、誰もが認めるベストプレーヤーとなったジョーダンに、ライバルなど存在しなかった。ピッペンの力を得たブルズは停滞期を脱しはしたものの、ジョーダンの神がかり的な能力をもってしても、次の壁が立ちはだかるのだった。

ライバルチームが、「ジョーダン・ルール」と呼ばれる戦術を考案し、ジョーダンの動きを封じたのだ。ジョーダンが自由に動けない状態では、ブルズに勝ち目はなかった。ブルズが勝つためには、もう1人の「誰か」が必要だった。その年、フィル・ジャクソンが監督に就任した。超人的才能を持つジョーダンのみに頼るのではなく、チームプレー重視の戦略、トライアングル・オフェンスを導入した。

責任を、1人で背負い込むのではなく、チームで分担することで、ジョーダンは優れたオールラウンドプレーヤーとなり、ビジョンを持ってプレーするようになった。ブルズも、チームと監督の力を再確認した。

ジャクソンの監督就任1年目で、チーム力は強化され、シーズン終了時には55勝27敗という記録を打ち立てた。しかしプレーオフでは再度ライバルに敗北を喫した。

明けて1991年、シカゴ・ブルズはついにNBAシーズンを史上最高記録で締めくくった。この時の記録は61勝21敗。そしてイースタン・カンファレンスのファイナルで、最大のライバル、ピストンズを4勝0敗のストレートで破った。