フェミニズム文学は、小説だけに局限されない。『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』(キム・ジナ著)のようなエッセイ集もある。ミュージシャンでもあるイ・ランのエッセイ集『話し足りなかった日』や『日刊イ・スラ:私たちのあいだの話』(イ・スラ著)もいい。今月日本語訳が出たばかりの『大邱の夜、ソウルの夜』(ソン・アラム著)は、家族や社会と絶え間なく葛藤するふたりの女性を描いたグラフィックノベルとして注目される。
男性作家の手になるフェミニズム小説もある。チャン・ガンミョンの『韓国が嫌いで』がそれである。帯には「女もすなるフェミニズム小説といふものを、男もしてみむとするなり」とある。男子高校の男性教師が書いたフェミニズムエッセイ『私は男でフェミニストです』(チェ・スンボム著)も必読書である。
主人公「僕」の視点からフェミニストの彼女の姿を描いた『僕の狂ったフェミ彼女』(ミン・ジヒョン著)も来月日本語訳が出るという。
最後に、クィア文学についても触れる。すでに述べたように、セクシュアルマイノリティを扱ったクィア文学は、現在嘱目(しょくもく)される、韓国文学の新たな潮流と言える。とりわけ、2018年あたりから注目され始め、同年には韓国初のクィア文学選集『愛を止めないでください』がキュキュという出版社から刊行された。
キュキュはクィア文学専門の出版社であり、『愛を止めないでください』を創刊書として、現在「キュキュクィア短編選」が4冊目まで出ている。先に名を挙げたチョ・ナムジュ、チョン・セラン、ファン・ジョンウンらの作品も収める。
韓国のクィア文学を牽引するのは、キム・ボンゴン、パク・サンヨンなどといった、セクシュアルマイノリティの当事者性の強い、比較的若い作家たちだと言えよう。日本語で読めるものとしては、例えば、ゲイの愛と喪失を描いたパク・サンヨンの『大都会の愛し方』のような作品がある。
レズビアンをめぐる作品としては、キム・ヘジンの『娘について』がある。レズビアンの娘を前に苦悩し、葛藤する母と娘の物語である。『わたしに無害なひと』(チェ・ウニョン著)所収の「あの夏」も女性同士のロマンスを描いている。
小説に限らず、『詩人の恋』(キム・ヤンヒ監督)や『ユンヒへ』(イム・デヒョン監督)など、同性愛に関わる映画も脚光を浴びている。また、筆者は未見だが、日本においても多くの視聴者を得たドラマ『梨泰院クラス』も「性的マイノリティに対する偏見や差別意識を強く意識した作品」(伊東順子著『韓国カルチャー:隣人の素顔と現在』)である。
しかしながら、実際の韓国社会において、LGBTについての理解はあまり進んでいないように見える。トランスジェンダー女性が女子大への入学を諦念せざるを得なかった事例や、性別適合手術後に除隊させられたトランスジェンダー女性兵士が自殺をした事例など、性的少数者に対する理解不足や差別がもたらした悲劇がしばしばニュースとなる。概して韓国社会は、LGBTに対してまだ不寛容であり、その背後にはキリスト教の影響などもあると言われる。文学はこうした現実を少しずつでも変えていく力になるものと筆者は信ずる。
以上、韓国におけるフェミニズムとフェミニズム文学、クィア文学などについて述べた。分量の制約や筆者の力量不足もあり、言及できなかった話題も多いが、本稿によって、読者諸兄の韓国の文学や社会への興味が些かなりとも誘起されれば幸いである。また、言うまでもないことだが、韓国文学はフェミニズム文学やクィア文学だけではない。これらを潜り戸として、他のジャンルの文学にも社会的な関心がさらに拡張していくことを願うものである。
*韓国人名はカタカナで表記した。また、本稿は「読書案内」という性格も持っており、作品については日本語訳があるものを選択的に挙げるようにした。
(編集部注:書籍の翻訳者名、出版社名は割愛した)
(1日目第1回は男性に不満を持つ「韓国女性たち」の容赦ない本音)