ところで、『82年生まれ、キム・ジヨン』が韓国で大ヒットした背景には、作品自体が蔵する価値はもとより、それ以前から高まりつつあったフェミニズムの波がある。こうした波を、文化評論家のソン・ヒジョンは「フェミニズム・リブート」と称呼した。
2015年には、ミソジニー(女性嫌悪)カウンターサイト「メガリア」が登場する。2010年に開設された、ミソジニーサイトの代表的存在「日刊ベスト貯蔵所(通称「イルベ」)」などの女性差別に対するミラーリングを行ない、また、女性への盗撮を根絶するためのキャンペーンをはじめ、さまざまな活動を展開したが、その言動の過激さによって批判も浴びた。サイト自体は2017年に閉鎖されたものの、メガリアという語は韓国フェミニズムを象徴する記号と化し、またメガリアから派生したラディカルフェミニストたちによるミサンドリー(男性嫌悪)サイト「ウォーマド」によってその思想や活動は継承された。なお、メガリアについては、『根のないフェミニズム:フェミサイドに立ち向かったメガリアたち』(キム・インミョン他著)に詳しい。
フェミニズム運動をさらに加速化させることとなった決定的な出来事は、2016年5月に起きた「江南駅女性刺殺事件」である。ソウル有数の繁華街・江南駅付近の商業ビルの両性共用トイレで23歳の女性が殺害された凄惨な事件である。加害者の30代男性が「女たちが自分を無視してきたから」などと警察に供述したことから、この事件を「フェミサイド」と認識した人々によって、事件現場は被害者を弔うポストイットで溢れ、SNSを中心に韓国社会全体へと追悼の動きが拡がっていった。
これは同時に、これまで緘黙(かんもく)していた女性たちが、ミソジニーに由来する被害体験を次々に語り始めるきっかけとなり、家父長制や男尊女卑的な価値観が瀰漫(びまん)する韓国社会のありようを大きく揺るがすこととなった。このような文脈の中で、『82年生まれ、キム・ジヨン』がベストセラーとなったのは、ある意味で自然な帰結とも言いうる。
爾来、フェミニズムの波濤(はとう)は勢いをいや増していく。アメリカに端を発し、世界的に拡散した#MeToo運動は韓国にも波及し、いくたりもの男性著名人が告発された。1960年代のアメリカの学生運動やフェミニズム運動のスローガン「個人的なことは政治的なこと」というのはまさにその通りで、韓国の#MeToo運動を、女性が主導する〈第二の民主化運動〉として定位する論者もいる。2018年5月から12月にかけて行なわれた、盗撮の糾弾と警察の公正な捜査を求める「不便な勇気デモ」には、計34万名もの女性たちが参加し、#MeToo運動開始以来、女性だけのデモとしては最大規模のものとなった。
社会からの「女性らしさ」の強要を「コルセット」と名づけ、「脱コルセット」「脱コルセット運動」という新語も生まれた。「脱コルセット(運動)」とは、男性目線の「女性らしさ」に対する異議申し立てであり、「女性らしさ」の呪縛からの脱却を積極的に目指すものである。日本語には「女子力」ということばがあるが、「コルセット」は意味的にそれと通ずるところもあるように思われる。『脱コルセット:到来した想像』という書籍もあり、近々タバブックスから日本語訳も刊行される予定だという。
この本の著者イ・ミンギョンは『私たちにはことばが必要だ』という、『82年生まれ、キム・ジヨン』と並んで韓国でベストセラーになった、フェミニズムの重要文献の著者でもある。セクシスト(性差別主義者)に対抗するためのことばの「マニュアル」であり、日本語訳も出ている(『私たちにはことばが必要だ:フェミニストは黙らない』)。