人に傷つけられて、怒りを抱えつづけた経験はないだろうか。心の貴重なエネルギーを、恨みや不満に費やしてしまったことはないだろうか。その傷はどれだけの期間つづいただろう。数週間、数カ月、数年、それとも数十年?
ウィリアムズの話は、別の可能性を示してくれる。
彼のような悲劇の中でさえ、怒りや恨みを手放すことは可能なのだ。本当に大切なもののために、困難な道を選びとることができるのだ。
そのために、ちょっと変わった質問をしてみよう。
「この怒りを、なんの仕事のために雇用したのか?」
これはハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授の考え方だ。マネジメント論の権威であるクリステンセンによれば、人は商品やサービスをただ購入するのではない。特定のジョブを達成するために「雇用」しているのだ。
感情についても、同様に考えることができる。
怒りの感情を雇用する目的は、たとえば満たされないニーズを満たすためだ。すっきりしない気持ちを、怒りが解決してくれるのではないかと期待する。
ところが、業績を評価してみると、怒りはあまりいい仕事をしていないことに気づく。リソースを食うばかりで、投資に見合った効果が得られないのだ。その場合、怒りを解雇したほうがいい。
自分が優位に立ちたいために、怒りを雇用することもある。自分が正しく、間違っているのは他人だと思うためだ。他人に責任をなすりつければ、自分はまっとうで強い人間だと感じるかもしれない。
だがそれは、かりそめの満足感だ。怒りはまるで『ロード・オブ・ザ・リング』の登場人物グリマ(蛇の舌)のように、あたかも忠実な部下のごとく振る舞いながら、主人の座を奪うことを虎視眈々と狙っている。怒りに支配されてしまえば、私たちはずっと他責と自己正当化と自己嫌悪から逃れられない。
他人の関心を引きたくて、怒りを雇用することもある。自分が不当な目に遭った話をすれば、周りの人は同情し、慰めてくれるだろう。やさしくされるのは気持ちがいいから、私たちは何度も何度もその話をしてしまう。
だがそうするうちに、聞くほうも疲れてきて、以前のように同情してくれなくなる。あなたは周りの人に失望し、話を聞いてくれる人を求めてさまよう羽目になる。
自分を守るために、怒りを雇用することもある。自分を傷つけたことのある人に敵意を抱き、距離を置けば、もう傷つけられなくてすむからだ。怒りを持ちつづけることで、心をガードする戦略だ。
だがこれも、結局はうまくいかない。自分を守っているつもりでも、実際は傷つきやすく、不安だらけになってしまう。人を信じることができなくなり、孤立する。
詩人のヘンリー・ワーズワース・ロングフェローも言っている。
「雨の日にできる最善のことは、雨を降らせておくことだ」
自分を傷つけた人に対するネガティブな感情を、手放してみよう。
相手を自由にするためではない。自分自身を解放するためだ。
怒りや不満を、感謝と思いやりに変えてみよう。
それはただの交換ではない。革命的な変化だ。
これを1つひとつ積み重ねるたびに、私たちは少しずつ、エフォートレスな精神に近づくことができる。