「不安になりにくい人」がやっている日々の習慣

「安全・安心なコミュニティ」は江戸時代にも存在した

石川:コミュニティについての話になるんだけど、江戸文化研究者・田中優子さんの著書に『江戸はネットワーク』(平凡社)というのがあって、これがすごく興味深い内容だった。

この本の中で、江戸時代には「連」というコミュニティが数多く存在していて、この膨大なネットワークを利用して情報が行き交い、豊かな文化が誕生していったのだと言及されている。かの松尾芭蕉も連句(※五・七・五の長句と七・七の短句を交互に詠み交わしていくもの)が得意で、訪れた各地で出会った人たちと句を詠んでいたら有名になり、それで食べていけるまでになった人でしょ(笑)。

連に所属している人たちはいわゆるペンネームのような「号(俳号)」を持っているのだけれど、文化人ともなると、連ごとに違う30から40もの号を持っていた。これはある意味、「一貫した自己なんて別に無いよね」という考え方とも取れる。40の連コミュニティに属していれば、40の自分が存在するということだから。

羽賀:現代ならSNSのアカウント名ですかね。自分の号の数が、所属しているコミュニティの数にもなるわけですか。

石川:そう。号は連の中だけでなく、飲みに行ったお店とかでも使っていたみたいだけれどね。羽賀翔一ではなく「酔いどれ太郎です!」みたいな(笑)。ただ連というコミュニティはあくまで「機能」を重視していて、「存在」することが目的ではなかった。だから機能しなくなったら解散する。ついては離れ、の繰り返し。

羽賀:連句って、完全なる個人でクリエイティブなものを生み出すというよりは、なんとなく地続きで他者とつながっている自分がいて、そこから何かを作り出す、というイメージがします。以前にこのメンバーで「誇り」について話をしたとき、「日本人は組織やコミュニティに対して誇りを抱きやすい」という考察がありましたけれど、こうした昔からの慣習も影響しているんですかね?

石川:つながっていると思うよ。個人ではなく連として何かを作り出す感覚なのかも。人類の長い歴史の中で見てみると、「個」に焦点が当てられるようになったのはつい最近のことなのだとつくづく感じる。

「不安」をなくしたら、人は「安心」できるのか?

佐渡島:「安心」の対義語って「不安」だよね。抑うつ状態って、あらゆることへの不安や悲観、「周囲が自分を攻撃している」などの思考が伴っているけれど、これはその人の生活環境や人間関係といった外的要因に、感情が振り回されてしまっている可能性もあると思っていて。

石川:「論文はうつっぽくならないと書けない!」みたいな感覚なら、僕も理解できる。研究者にとって1月って、だいたい論文を書くシーズンなんだよ。7月の学会に向けた論文の締め切りが1月だから。なのでこの時期は、みんなうつ々としている(笑)。アイデアを出すときはご機嫌でいいのだけれど、きちんと思考をつなげようとすると、だんだんうつっぽくなっていく。

佐渡島:そもそも躁状態だと、ずっと机に向かってなんかいられないよね(笑)。思考を「ああでもない……こうでもない……」とやっていると、うつ状態になりやすくはなるかもしれないなあ。

羽賀:「人間が持つ闇」をテーマにした作品は数多くありますけれど、作家にとってはその深い闇をのぞいて向き合い続ける作業でもあるので、精神的にかなりきついと思います。

佐渡島:それで自殺してしまう作家もいるくらいだからね……。ただこれは、作家という職業だけが特殊な要因ではない気がする。なぜかというと、自殺してしまう人の職業において作家が突出して多いわけではないから。僕はやはり、外的要因が存在していると思うな。たとえば人やコミュニティとの接点がほとんどなかったり、逆に人やコミュニティがストレスになっていたり。