“バイセクシャルのスーパーマン”が、海を越えて論議を呼んでいる。11月9日、DCコミックスから出版される新刊『Superman: Son of Kal-El(原題)』で、クラーク・ケントの息子ジョン・ケントに男性の恋人ができると発表された。
つい半年ほど前には、黒人のスーパーマンを主役にした映画の企画が進んでいると報道されたばかり。このときも、今回同様「それをやりたいなら新しいキャラクターでやればいい」「どうしてスーパーマンでやる必要がある?」「お願いだからスーパーマンは放っておいて」という声が多く上がった。
それらの意見は、一見、妥当なように思える。だが、それは違う。これは、スーパーマンだからこそやる意味があるのだ。
スーパーマンは、昔から世界中の子どもたちにあこがれられてきた特別なヒーローだ。子どもたちは、スーパーマンごっこをしては、空を飛び、正義のために戦う自分を想像してきた。
だが、映画やテレビが新たに作られたとき、スーパーマンを演じるのは、いつも白人のストレート男優。スーパーマンは白人のストレート男性だと決まっているのだから、しかたがない。多くの子どもたちは、自分はスーパーマンになれないということを、無意識のうちに、その都度思い知らされてきたのである。
今回、その“常識”がくつがえされるわけだが、それをクラークではなく息子でやったDCコミックスは、賢いと言わざるをえない。クラークにロイス・レンというパートナーがいることは、周知の事実。それなのに、突然にして実はバイセクシュアルだったとか、ゲイだったとなったとしたら、無理があるし、従来のファンを怒らせるのは必至だ。
しかし、彼の息子世代、つまりもっとオープンな時代に育った今どきの若者がバイセクシュアルだったら自然である。現実の世の中でも、わが子がカミングアウトしてその事実を親が受け入れるということは、今や頻繁に起こっているのだから、むしろ一部の親世代からは共感を得られるだろう。
それにジョンだって、スーパーマンはスーパーマンだ。クリエーターたちは、クラークのレガシーを変えることなく、スーパーマンをアップデートしてみせたのである。
先に述べた黒人スーパーマンの映画プロジェクトにしても、同じパターンになりそうな気配だ。こちらも、主人公はクラークではなく、コミックに登場する黒人のスーパーマンになるのではと言われているのである。
ひと足先に、スパイダーマンも同じ方法で成功した。アニメーション映画『スパイダーマン:スパイダーバース』の主人公は、黒人の高校生。彼はスパイダーマンになるものの、おなじみピーター・パーカーにすり替わったわけではなく、ピーターはピーターとして映画に登場する。
スパイダーマンも、スーパーマンも、ひとりしか存在してはいけないというルールはない。複数いて、そこにLGBTQや有色人種の人間がいても、なんら問題ないはずだ。その視点が多様化への突破口も開いたと言える。
一方で、2016年の『スター・トレック BEYOND』は正攻法で、おなじみのキャラクターであるスールーをLGBTQにしてみせた。このときも、かなり大きな論議が起こっている。オリジナルのスールーを演じてきたジョージ・タケイも、自身がゲイであることをオープンにしているにもかかわらず、「新しいゲイのキャラクターを出してくればいい」と反対の声を上げていた。
それでもライターらは、スールーでそれをやることにこだわったのだ。出演と脚本家を兼任するサイモン・ペッグは、当時、筆者とのインタビューで、「新しくゲイのキャラクターを作ると、観客はその人を最初からゲイとしてしか見ないから」と理由を語っている。