「会社が息苦しい」人が目指すべき新しい共同体

ところが、現在インスタグラマーたちは、もはや盛り過ぎた「インスタ映え」は古いと思うようになっており、内面の暗さを全面的に出して、本心をさらけ出すほうがカッコいいとされています。つまり、承認欲求を満たす行為をやりすぎた結果の、裏返しが起きているのです。

そしてこの現象は、アメリカの歌手ビリー・アイリッシュのムーブメントとも重なっています。時代はどんどん内側に向かう方向に来ていて、SNSでも、自撮りはするけれども、顔にマスクをかけたり加工したりして、顔を出さない人が増えています。

自分の外見的な美しさをガンガン出すのではなく、内面を見てほしいというわけです。

しかし、ここで面白いのは、心の美しさは、いくら盛っても盛れないということです。たとえば、心を盛ろうとして、毎日コンビニで店員さんに「ありがとう」と言うことをくり返したとします。そうすると、自然と本当にいい人になりますよ。

内面の美しさを見せていくということは、その人全体が変わるということでもあるわけです。『モンク思考』にも、人に奉仕をしなさいと書かれています。それは、内面が変わるからです。

内省や自省するということへの期待

東日本大震災以降、僕は、宗教が復興されるのではと思ってきましたが、本書では、僧侶の思想に立ち返る形で、宗教の価値や意味というものを問うているところが新しいと感じました。

アメリカでベストセラーになっているのは、やはり、内省や自省するということへの期待感があるからではないでしょうか。

世界的に宗教離れが起きてもいます。フランスは、若者の間でカトリック離れが起きていますし、アメリカでも無宗教になる人が増えています。

そもそも教会は、無秩序な戦争が起きていた時代、社会的ヒエラルキーという、ある種の秩序を人々に与えることで、安定感をもたらす機能があったと言われています。中世ヨーロッパでは、戦争の混乱のさなか、食べる物もありませんでした。しかし「聖」と「俗」という秩序に自分をはめ込めば、乱世においても安定していられるという感覚があったのです。

ところが、現代は逆に、秩序から逃れたい人のほうが多い状態です。カトリックのヒエラルキーは、もはや現代人には向いていないということになります。

日本における仏教も同じでしょう。日本人は、仏教などの宗教が、自分たちにとって一体何なのかということがわからなくなっています。寺は檀家に支えられ、葬式仏教になっていますが、年々その檀家が消滅して、末端の寺は成り立たなくなっています。

かと言って、現実に日常生活を送っているなかで、寺にお参りをすれば心が癒されるかというと、そうでもありません。寺は、本来救済のためにあるものなのに、今は、ただの観光名所です。病気にかかって病院に行ったのに、診察を受けずに、建物を見て「すごいなあ」と言っているようなものですよ(笑)。既存の宗教は、現代人の求めるものに対して、あまりにも適していないわけです。

一方で、スピリチュアルにはまり、それで充足している人は増えています。では、宗教というのはいったい何のためにあるのでしょう?

出世や成功よりも、持続する人生

以前、僧侶の藤田一照さんから、こんなお話を聞きました。恋人ができない、病気が苦しいなど、現世利益に対する答えはスピリチュアルなどで用意されていたとしても、最後に残された「いつか人は死ぬ」というような根源的なところを問うのが宗教なのだ、と。

藤原新也さんの『なにも願わない手を合わせる』という著作がありますが、道端のお地蔵さんに手を合わせる人々がいても、決してそれがお願いを叶えてくれるわけではありません。それでも、なぜ手を合わせるのか。それは、自分がそのお地蔵さんを守りたいという姿勢なのではないかというのです。

それはつまり、人生の姿勢ということでもあるでしょう。感謝の気持ちを持ったり、自分がこの御霊を守ってあげたいというポジティブな思いをくり返していくことで、自然とその人の心が浄化されていく。

同じように、人生の姿勢として、「何かをやってほしい」ではなく、「自分が何かをすることによって、自分が変わっていこう」という感覚を求めている人は、いま多いのではないでしょうか。そこに『モンク思考』はつながっています。

より大きな目で、俯瞰的に自分と社会の関係を見るというのは、とても大事なことですし、本書は、出世や成功などの現世利益を求める自己啓発書ではなく、持続する人生というものを考えるために読むものです。

そしてゴールではなく、続いていくプロセスのほうが大事だということが非常によくわかります。どういう姿勢でこれからを生きていくのか。それを考えたい人に最適の一冊です。

(構成:泉美木蘭)