引越し46回!職も転々「江戸川乱歩」の意外な人生

終の住処となった旧江戸川乱歩邸は池袋にある(イラスト:長池悠佳、写真:MUG/PIXTA)
2012年の暮れから連載が始まった漫画「文豪ストレイドッグス」が火付け役となって広がったのが「文豪」ブームです。文豪たちは人並み外れたイメージと言葉を自在に操る一方で、私たちと同じように生きて暮らし、悩み、悦び、苦しんだ生活者でもあります。では、文豪たちはどこで誰とどのように暮らし、何を考えていかに生きたのでしょうか。暮らしと執筆の場である住宅をめぐる事情を知ると、その姿が鮮明に浮かび上がってきます。
今回は「江戸川乱歩」の住宅事情について解説します。
※本稿は『文豪たちの住宅事情』(田村景子編著、小堀洋平著、田部知季著、吉野泰平著)から一部抜粋・再構成したものです。
前回:自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」壮絶な最期
前々回:実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生

早大在学時に住んだ家だけでも11か所

江戸川乱歩は、本人が数えたところによると46か所の家に住んでいる。三重県名張町で生まれた後、前近代的空間とモダニズムとが同居する名古屋で3歳から18歳までを過ごした。進学し上京、早大在学時に住んだ家だけでも11か所という。

大学卒業後は1年ほどで会社を辞めた後、衣類などを売りながら、1日50、60銭の生活費で当てのない日を送ることもあった。その後も職を転々としていたが、母方の祖母の形見分けで弟が1000円を受け取り、これを元手に1919年、東京都本郷区駒込林町6番地、団子坂上に文学書専門の古本屋「三人書房」を2人の弟とともに開業する。ちなみにここは乱歩28か所目の家であった。

日本家屋における密室殺人の可能性を示そうとした『D坂の殺人事件』の背景は、団子坂で開いたこの古本屋の店構えや近所の様子を念頭に置いて書かれている。

古本屋はよくある型で、店全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届く様な本棚を取付け、その腰の所が本を並べるための台になっている。土間の中央には、島の様に、これも本を並べたり積上げたりする為の、長方形の台が置いてある。そして、正面の本棚の右の方が三尺許りあいていて奥の部屋との通路になり、先に云った1枚の障子が立ててある(『D坂の殺人事件』)

この建物は店舗部分のほか1階に4畳半の部屋、2階に6畳の部屋があり、乱歩の部屋は2階の6畳だった。この部屋には、鳥羽造船所に勤務していたころの同僚である井上勝喜が転がり込んできており、2人で探偵小説の筋を考えたり、未読の探偵小説を一方が朗読し、データが出そろったところで犯人を推理したりしたという。同好の士とともに、探偵小説で夜が明け、探偵小説で日が暮れる時代だった。

乱歩のデビュー作となる『二銭銅貨』の筋は、このころ考えられたもので、その冒頭は次のように始まる。

「あの泥坊がうらやましい」2人の間にこんな言葉が交される程、其頃は窮迫していた。場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただ1間しかない六畳に、一閑張の破れ机を二つ並べて、松村武とこの私とが、変な空想ばかりたくましゅうして、ゴロゴロしていた頃のお話である。もう何もかも行詰って了って、動きの取れなかった2人は、丁度その頃世間を騒がせた大泥坊の、巧みなやり口を羨む様な、さもしい心持になっていた。(『二銭銅貨』)

売れ行きは悪くなかったラーメン屋台

古本屋はまったくの営業不振であり、乱歩はチャルメラを吹いてラーメン屋台を引くこともあった。うまくいくと一晩に10円以上の売り上げがあって純益が7円ほど、悪くても純益3、4円を下ることはなかったという。

売れ行きは悪くなかったようだが、これは半月ほどで止めてしまったらしい。というのもこの時期に村山隆と結婚をしており、乱歩は屋台を引いている場合ではないと考えたようだ。しかし、貧窮生活は一向に改善されず、隆の持って来た衣類も次々と質入れされ、生真面目な隆は新婚早々驚愕することになる。