結果、このルールは、私たち夫婦の結束を固くした。だから、日本中の夫である方に、熱烈推奨したいのである。特に、「家にいる夫」には、買い物帰りの妻を迎えるシーンが多発する。ゆめゆめ、気を抜かないように。
あるとき、テレビのニュース番組の情報コーナーで、「妻の買い物袋を台所まで運んでください」と言ったら、コメンテイターの50代男性に「それは偽善だよ」と言われた。「妻は、ここまでの500mを運んできてるんだ。最後の3mがなんだっていうんだ。そこだけ持ってやったって、意味がない」と。
私は、「いやいや、妻は、最後の3mで絶望する」と答えた。家族のため、重い買い物袋を持って歩くこと自体に、私たちは腹は立たない。「こんなに重いなんて、家族なんていなきゃいいのに。子どもなんか産まなきゃよかった」なんて、誰が思うだろう。
けれど、玄関を入って、リビングで寝そべったまま何もしない夫には絶望する。要は「重くてつらいから手伝ってほしい」のではなく「ここまで500m重い荷物を指に食い込ませながら歩いてきたことをねぎらってほしい」からだ。
女性脳は共感とねぎらいで、ストレス信号を減衰させる。家事を手伝ってくれることもたしかに嬉しいけど、家事をねぎらってくれることのほうがずっと大事。
そう考えてみると、ヨーロッパの男性たちがするレディファーストは、よくできたマナーだ。女性が荷物を持っていたら手を差し伸べる、ドアを開けようと思っていたら開けてやる、女性が椅子に座るのを待ってから自分が座る。あれは、女性たちに「あなたを見守ってますよ、あなたがしていることに敬意を抱いてますよ」を表すアイコン(象徴)。今さら恥ずかしいと言わず、試してみてほしい。定年後の暮らしが楽になる最大のコツだ。なにせ、ここから40年あるのである。
くだんのコメンテイター氏は、「うちの妻は、30年も完璧な専業主婦として、僕を支えてくれている。いわば、プロフェッショナル。うちの妻に限って、そんなことは絶対にない」と言い切っていたが、翌日、お詫びのメールをくださった。「帰宅したら、玄関に妻が立っていて、黒川先生が正しい、と叱られました」と。
あるとき、私のイタリア語の先生(イタリア人男性)に、夫源病について説明していたら、まったく通じない。イタリア語が難しいわけじゃない(最後はほとんど日本語でしゃべっていた)。イタリア人男性が、日本の夫たちが気軽にすることをしないからだった。
「2階から、妻を呼びつける?したことがない。イタリア男は誰もしない。イタリアの女性は、絶対に来ないから」
「お茶!それだけでお茶が出るの? イタリアでは、店員さんにさえ、「Per favore(お願いします)」をつけるのに。しかも、家で飲み物を淹れるのは男の役目。イタリアで、妻に「Un caffè(コーヒー)」と言ったら、「いいわね」か「要らない」のどちらかの返事が返ってくる」
「靴下を脱ぎっぱなしにする?なんだそれ。イタリアでは、大人はけっしてそんなことはしない」
「妻に小言?とんでもない。女性たちの仕事には敬意を払う。家事は簡単なことじゃないから」
……だそうです。
イタリアでは、職業を聞かれると、堂々と「主婦(Casalinga、カーサリンガ)」と応える。家ごとに独自のパスタとソースとドルチェを継承していくマンマたちの地位は高い。「職業は?」と聞かれて、「いいえ、何も。ただの主婦です」と答えるわが国の主婦たちがなんと多いことか。自分を過小評価しすぎて、人生に意味が見いだせず、夫に絶望する。家族に主婦業に対する敬意がなく、「ねぎらう」マナーがないのが問題なのだろう。
とはいえ、恥ずかしがり屋の日本男子に、イタリア男の真似はとうてい無理。日本男子らしい、和のレディファーストを作らなければならないかもしれない。