2019年、私たち夫婦は還暦を迎え、夫が定年退職をした。
ときに、結婚35周年を迎えようとしていた私たちである。ふと、こののち何年夫婦を続けていくのかしら、と指折り数えてみて、驚愕してしまった。
1959年生まれの私たちの世代は、3~4人に1人が100歳以上生きるとメディアで言われていた。もしも万が一(三が一だけど)、私たちが100歳に到達するのなら、なんとこれから40年もあるのである。人生100年時代の到来は、結婚70年時代の到来でもあったのだ。
これまでよりはるかに長い年月を、私たちは夫婦として生きてゆく……!
永遠の愛を誓って涙を流し、わが子に出会い、泣いたり笑ったりしてともに歩いてきたこの道のりより、はるかに長いって、どんなに長いんだ。
しかも、夫が家にいる。
こ、これはかなりの覚悟と工夫が要るのでは? と、私は珍しく動揺してしまった。
うちだけの問題じゃない。残念ながら、この事態に、人類は慣れていない。少し前まで、男たちは定年退職した後、そう長くは生きてはいなかったのだもの。そもそも、とっさに正反対の感性を働かせ、別々の行動に出る男女は、24時間同じ空間で暮らす仕様にはできていない。
妻の笑顔が10年も消えている家、定年が怖い家、そして、コロナ禍で若い夫婦さえも一軒の家に閉じ込められている今、日本の夫婦シーンは、暗雲立ち込めている。
妻が、買い物袋を両手に提げて、玄関から入ってきた。そんなとき、夫は跳んで行って、荷物を持っているだろうか。
我が家ははるか以前に、これをルール化した。私が、買い物袋をカサカサいわせながら玄関のドアを開けると、リビングで寛いでいた夫や息子が、跳び起きて、走ってきてくれる。夫が荷物を受け取り、幼い息子が手をさすってくれた。私は、その度に、「この家族のために、何でもできる」と思ったものだった。
共働きで、買い物も料理も、洗濯も風呂掃除も、全部私がやっていたけど、この瞬間にすべてのわだかまりが氷解する。そんな感じだった。今では、誰もルールだなんて意識していないけど、やっぱり荷物の気配を察すれば、2階のリビングから夫や息子が降りてきてくれる。
ルール化した理由は、ここがいちばん腹が立つポイントだったからだ。「ただいま」と声をかけても、夫が寛いだままのうのうとしていると、うんと腹が立つ。アタッシュケースに買い物袋を二つも三つもぶら提げて帰宅した私自身は、1秒も寛ぐことなく台所に立つのに。
腹立たしさを抱えながら台所に立つと、料理をしながら、「私ばっかり」と情けない気持ちになってくる。ついでに「洗濯も、風呂掃除も、このあと、私がやるんだわ」と家事の不公平を数え上げる羽目になる。これは危険だと判断し、「私が帰宅したら、玄関まで迎えに来る」をルール化したのである。それだけはやってほしい、買い物も料理もしないでご飯を食べるのだから、とお願いして。