マネジャーがリーダーシップの邪魔をする理由

外交であるから、水面下での諜報活動や裏の折衝はあるだろうが、表の舞台では相手が誰であろうが、批判があろうがなかろうが、言うべきことを言う。タフ・ネゴシエーター(厳しい交渉人)像を見せつけることが、国際政治はもとより、グローバルビジネスでも最低限必要な資質だろう。

その一方で、内輪のルールを重視し、はっきりとした自己主張をしない組織人や官僚の気質で、タフな交渉に臨むとどうなるか。

思い返せば、わが国の輸出産業に大打撃を与え、バブル経済の引き金を引いた1985年のプラザ合意のような煮え湯を、同盟国と思っていたアメリカから吞まされたり、1996年、決まりかけていたFIFAワールドカップ単独招致が、土壇場で日韓共同開催という玉虫色の決着に陥ったりする。それでも国民は、文句も言わずじっとガマンである。

そこで感じることは何か。わが国ではリーダーシップを取らないことに慣れすぎた。

リーダーとマネジャーは何が違うのか?

「日本企業は現場とミドルで持つ」という通説がある。現場を支えている人たちが、組織とともに、この国を支えているということだ。裏を返せば、トップは神輿に乗るお飾りということにもなるから、リーダーシップが一歩遠ざかる。

この国でリーダーシップが見えにくいのは、マネジャーが邪魔をしているからだ。にわかには信じられないかもしれないが、マネジャーとしてデキる人が上に立つから、リーダーシップの行く手をふさいでしまう。

組織で昇進するということは、ふつう、マネジャーとして能力が買われて上にあがる。まずは、管理の仕事をきっちりこなすことが求められる。中間管理職になれば、部下を持つ立場になるので、職場全体に目利きをしながら、自分以外の人を通して業務を間違いなく実施運営していく。マネジャーとしての管理能力が決め手となる。

上級管理職になっても、その仕組みは変わらない。内部昇進を軸にして、業務をうまく回していけるマネジメントの才覚がある人が、昇進するのが慣例だった。それ自体は不都合ではない。きちんとできる人がマネジャーとなるのは当然だし、そうでなければ組織が回っていかない。

しかし、上に行けば行くほど事情が変わる。マネジメントだけではなく、チームや部門や組織全体を導いていくためのリーダーシップが期待される。ここがくせものだ。

マネジャーもリーダーも、どちらも組織の上層を担っているので、いっしょくたにされてしまう。マネジメントもリーダーシップもカタカナなので、いまいちピンとこない。マネジメントのポジションに就いている人にはリーダーシップがあると、ついつい考えてしまう。

菅総理は、安倍政権を官房長官として7年8カ月支えた。「官邸の守護神」とか、「安倍に菅あり」といわれ、その手腕は折り紙付きで、高い評判を得ていた。かつての森政権誕生のときのように、キングメーカーが密室で首相を決めるという筋書きは、会社でいえばコンプライアンス違反となる。

だから、オープンに、首相を総裁選で決めることになっている。菅政権も、都道府県連の代表による地方票の影響ではなく、国会議員の圧倒的な支持を受けて誕生した。

国会議員の目敏さで、「勝ち馬」に乗ろうとしたのかもしれない。他に選択肢がないという消極的理由だったのかもしれない。しかし、遠くから冷静に眺めてみれば、官房長官としてのマネジメントのスキルを評価して、信任を得たのは明らかだ。

それがどうだろう。発足当初の高い支持率はご祝儀相場だとして、その後のステーキ会食事件、東京オリンピック組織委員会長の迷走、長男を巻き込んだ東北新社の接待などの一連の騒動が影響して、支持率が低迷。緊急事態宣言の発令と解除といった国民生活に密着したことでも、ペーパーを読み上げるばかりで、その言葉が国民に届かない。