私は、心療内科のクリニックを運営するかたわら、嘱託医として、いくつかの企業の社員のメンタルヘルスケアにたずさわっています。
その中で、各部門の上長やグループリーダーの立場にいる人たちと話をするとき、決まって出される質問が「疲れ気味の部下がいるのですが、どう声をかければいいのでしょうか」「メンタルクリニックにかかっている部下に、どの程度の仕事をさせればいいのでしょうか」「適応障害になって自宅安静から復職してきた部下を、どういうふうに見守っていけばいいのでしょうか」などです。
これらは、どれも難しい内容ではなく、むしろごく初歩的な対応についてのことばかりですが、対応するのはなかなか難しいようです。
最近、あなたの周囲に、どうも様子のおかしい部下がいたとします。顔色が悪く、ミスを連発し、すっかり笑顔がなくなって、飲みに誘っても断ります。それでも勤怠に問題はなく、忙しい中、むしろ残業は増えています。
上司であるあなたは、「疲れているようだな」と気にして、声をかけます。でも、「大丈夫です」という答えしか返ってきません。あなたは気になっていますが、何の対策を講じることもなく、時間ばかりが過ぎていきます。
その半年後、彼は心身の不調をきたし、出社することができなくなってしまいました。そして、「適応障害」と書かれた診断書を提出し、長期の療養生活に入ったのです。あなたはいまさらのように愕然としますが、どうすることもできません。このようなとき、上司の取りがちな態度として、次のようなことが考えられます。
①どうしていいかわからず、結局何もしない
②「根性」「気のゆるみ」など、精神論に置き換える
③「この程度でおかしくなるはずがない」など、自分の価値観で判断する
④「俺に任せとけ」と親身になりすぎる
①は、様子の変化に気づきさえしないことも含め、最も多いケースです。医務室や産業医など、相談する先があっても利用しない、関わりたくない、関心がないなど、理由はさまざまです。
②は、バブル経済のころまでは当たり前だった価値観です。メンタルヘルス不全の存在すら認めず、人格的な「弱さ」だと決めつけます。戦前の教育の名残があるのかもしれません。
この風潮は、1991年の電通事件(社員の過労自殺に対して会社の責任が初めて認められた事件)をきっかけに、ようやくピリオドが打たれましたが、40代以上の世代では、まだまだ色濃く残っています。
③は、部下の立場に立って考えられていないということです。部下の心情、能力への配慮を欠きます。そうなる要因の1つに、上司の立場にいる人が競争に打ち勝ってきた、ある程度能力の高い人であるということがあります。
そういう人は、自身の能力を基準に見るので、パフォーマンスの落ちている部下を前にしても、なぜできないのかがよく理解できません。できて当たり前だと思うのです。その結果、「こんなこともできないのか」「このぐらいできるはずだ」など、個人的な価値基準で推しはかり、容赦なく断罪します。