実は善人とは限らない「日本の神様」驚きの正体

天照大神を祀る伊勢神宮(写真:gandhi/PIXTA)
子供が生まれたときの初参りや七五三、必勝悲願や安全祈願など、神社は私たちの日常の暮らしの中にしっかりと根づいている。「神社について知ることは日本を知ること」と説くのは宗教学者の島田裕巳氏だ。では、日本における「神」とは何か。島田氏の新著『教養として学んでおきたい神社』を一部抜粋・再編集して掲載する。

本居宣長が定義した日本の神様

日本における神の定義として最も有名なものは、江戸時代に国学者の本居宣長が行ったものである。宣長は、当時、読むことが難しくなっていた古事記の注釈を試み、それを『古事記伝』という書物にまとめている。その第3巻の最初の部分で、神とは何かについて述べている。それは、次のようなものである。

凡(すべ)て迦微(かみ)とは古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云(い)はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き(かしこ)物を迦微とは云なり。〔すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの、奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。〕

宣長はここで、「迦微(かみ)」という表現を使っているが、神話に登場する神々をはじめ、各地にある神社に祀(まつ)られている祭神、さらには、人だけではなく、鳥獣、木草、海山なども、それが通常のものよりすぐれていれば神であるとしている。

そして、神の基本的な性格である「すぐれたる」について注釈を施し、善いものも、悪いものも、それが他のものにくらべてすぐれていれば、どちらも神であるとしている。宣長の神についてのとらえ方は、この点に特徴がある。神は善神ばかりとは限らない。悪いものであっても、その程度が他と比べてはなはだしいものであれば、それは神だというのである。

たしかに、一神教の神も、世界を創造したという点では善なる存在だが、自らが創造した人類が堕落していると判断すれば、それを一掃してしまった。堕落した人間が悪いのだとも言えるが、ノアの家族以外に善人はいなかったのだろうか。そんなはずはない。それに、神は自らの失敗の責任をとらなかったとも言える。

宣長は、同じ『古事記伝』の第6巻で、「貴きも賤きも善も悪も、死ぬればみな此ノ夜見ノ国に往」くとし、誰もが死んだら、伊邪那美命(いざなみのみこと)が赴いた黄泉(よみ)の国(夜見ノ国)へ赴くとしていた。

そのうえで、「世ノ中の諸の禍事をなしたまふ禍津日ノ神(まがつひのかみ)は、もはら此ノ夜見ノ国の穢より成坐るぞかし」と述べている。

世の中に悪をもたらすのは、古事記に登場する禍津日ノ神であるとされる。この神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から戻ってけがれをはらったときに生まれている。

神学者や哲学者を苦しめる一神教の難問

一神教の世界には、実は重大な問題が存在している。それは、絶対の善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのかという問題である。神が善であるなら、その創造にかかる世界に悪が存在するはずはない。

ところが、現実には、さまざまな悪が存在している。この問題をどのように解決すればいいのだろうか。少し考えてみれば分かるが、問いとしてとてつもなく難しい。神学者や哲学者は、この難問に苦しめられてきた。

その点、宣長が考えたような形で神をとらえれば、そうした難問にぶちあたらない。日本では特別な働きをしたものが神として祀られてきた。